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犬養光博の宣教と思想、その霊性
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犬養光博の宣教と思想、その霊性
The mission, thought, and spirituality of Mitsuhiro Inukai
大倉 一郎
Ichiro Okura
犬養光博の宣教と思想、その霊性
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キーワード
犬養光博、宣教、実践、考察、人間化、霊性、明識
KEY WORDS
Mitsuhiro Inukai, Mission, Praxis, Reflection, Humanization, Spirituality, Awareness
要旨
 この論文は犬養光博の1960年代から2000年代までの著作と社会的活動を考察するこ
とによって、彼の働きの宣教学的意義を明らかにする。とりわけその実践と思想と霊
性を総合的に把握することを試みるものである。日本社会は経済的発展の陰で分断さ
れ、1960年代から貧しい民衆は周辺化された。彼は周辺化された民衆と共に生きる働
きを担った宣教者であった。犬養は戦後の石炭エネルギー政策の廃棄によって貧窮し
た民衆の間で活動することが彼の使命であると考えた。彼は共感と尊敬をもって民衆
との対話と協働を行うことを通じて神学的思想を形成した。彼は民衆こそ宣教の協働
者であり、さらに宣教は人間化という課題を重要視する必要があると主張する。また
教会とは宗教的建造物や組織ではなくイエス・キリストのプレゼンスを見出す場だと
主張する。彼の生き方に鋭い社会批判の精神と自己反省的敬虔を認めることができ
る。それは第二次世界大戦後日本のキリスト教徒として、自らの社会実践への批判的
考察を伴う「明識の霊性」を示しているといえるであろう。
SUMMARY
This article clarifies the significance of the missiology of Mitsuhiro Inukai’s work by
considering his writing and social activities from the 1960s through the 2000s. It
tries to grasp his praxis, thought and spirituality comprehensively.

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Japanese society has been divided in the shadow of economic development, with
poor people being marginalized within that social structure from the 1960s on.
Inukai assumed the role of a missionary who carried out his work living with the
marginalized. He thought that it was his mission to be active among people reduced
to poverty due to the changes in the coal energy policy after World War II. He
formed his theological thinking through dialogues with these people, always
expressed with compassion and respect. He insisted that the people are the real
partners in the work of evangelization and that evangelization has to place
emphasis on the task of “humanization.” In addition, he stressed that the church is a
place for finding the presence of Jesus Christ, not simply a religious building or
institution.
His way of life could encompass an awareness of scathing social criticism as well as
the piety of introspection. It may be said that he has evoked a “spirituality of
awareness” based on critical reflection of his own social activities as a Japanese
Christian after World War II.
1.宣教者としての犬養光博―本論文の課題・目的・方法―
 犬養光博は一九六五年から二〇一一年まで九州筑豊地方の福岡県田川郡金田町大字
福吉に生活の居を構え、同地に日本基督教団福吉伝道所を開設し、同伝道所牧師とし
てキリスト教の宣教活動を担った人物である。伝統的な意味でのキリスト教の宣教活
動とは、キリスト教信仰を説き広めることを中心として、その信仰の価値観と倫理に
基づく生活や社会的行為を人々に教示する言論活動や社会的活動を意味する。犬養の
筑豊宣教は、宣教の伝統的意味を試行錯誤の積み重ねの中で粘り強く変革する過程を
たどりながら多岐に及んだ。彼は筑豊の元炭鉱労働者やその家族、公害病カネミ油症
被害者、アジア・太平洋戦争下の朝鮮人強制連行犠牲者、在日朝鮮人、さらに様々な
側面で社会的周縁化を強いられた人々と関わりを深めた。それらの活動の中で犬養の
発言や活動に共感し、支援を寄せた人々と連帯しながら、彼はそれらの体験をふり返
る思索を自ら発行した通信紙『月刊福吉』などを通して長期間に渡り発信し続けた。
 犬養の言説は、その宣教活動、とくに苦難や危機にある人々に関わる実践と聖書研
究に養われた内省的な思索との根気強いつき合わせの中で育まれた。彼の言説は、目
の前の聴衆に直截で平明に語りかけるような言葉である。同時にその内容は、しばし
ば伝統的なキリスト教の宣教思想を自らの筑豊宣教の経験に照らして批判的に問いな

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おす言説となっている。そのような犬養の言説は、今日の共生社会への模索に関心を
いだく人、わけても宗教的信念や思想に立脚して働く者にとっての人間学的課題とは
何か、という問いを提出しているといえるだろう。また、その人間学的な課題に対す
る日本社会の現場からの一つの応答の言説となっているといえるだろう。本論文の目
的は、共生社会の実現を希望として歩む人にとって、犬養の言説は実践における人間
学的課題を提示していると見る視点から注目して、彼のキリスト教宣教思想の内容を
解明することである。
 犬養の思想の解明にあたって、本論文は彼の言説と実践を不可分離の有機体として
考察する方法をとる1。すぐれて実践の人である犬養においては言説と共に実践その
ものが思想の表出であると捉えられ、場合によっては実践そのものが最も深い意味で
彼の思想を表明していると考え得るからである。この有機体的理解の試みを表現する
ために、本稿では犬養の霊性の考察を終章「5.明識の霊性―結語にかえて―」で試
みる。その場合、霊性とは、暫定的と断わりつつ、「イエス・キリストを介して働き
かける神の霊に応答し、人間の身体的・精神的・社会的領域をダイナミックに根底的
に支える次元(スピリチュアリティ)に即して形成される生のあり方」であるとする
荒井献による定義の意味である(荒井,2009,p.4.)。この意味での霊性という観点
から犬養の宣教思想を理解したい。彼はイエス・キリストへの応答を生きているかと
の自問を反省的考察の中心におく人であった。その問いから宣教活動の実践を反省的
に考察することを通じて言説を蓄積した。それゆえ、霊性の考察という方法によって
よりいっそう犬養の思想の全体像の把握が可能になるものと考えるのである2
2.犬養光博の人と思想形成の歩み
2-1. 筑豊との出会いまで
 犬養光博は一九三九年、大阪市に生まれた。中学二年生の時に父を失う体験を経て
いる。日本基督教団南大阪教会の教会学校に通い、一九五七年、一八才で同教会にお
いて洗礼を受けてキリスト教徒となった。尊敬を寄せる神学生との出会いを経て自ら
将来は牧師となることをめざすようになり、同志社大学神学部及び同大学院に学び、
後に日本基督教団補教師となった。
 犬養の神学部生時代は六〇年安保闘争の渦中にあり、彼は危機感をもって学生運動
に参加していたが、一九六一年、二年生の夏休みに同学の友人服部清志の誘いを受け
て筑豊を訪れ、筑豊との最初の出会いを経験した。前年、一九六〇年には関東のキリ
スト教系大学の学生たちが「筑豊の子どもを守る会」を結成していた。犬養は、一九
六三年四月から「筑豊の子どもを守る会」の活動の延長として、一年間休学して筑豊

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の炭住に住み込んだ。滞在中、無教会グループの指導者の一人であった高橋三郎の聖
書講義テープを聴いて深く感銘を受け、その後の牧師としての歩みを通じてその学び
を継続した。高橋三郎の聖書講義との出会いについて、犬養は後年「そこで語られる
御言葉の権威に打たれ」、「ぼくの人生で決定的なことだった」(犬養,2009,p.97.)
と回想している。一九六四年、同志社の大学院に復学、翌年三月に修了。永見素子と
結婚し彼女と共に筑豊の金田町福吉に移住した。
2-2.筑豊での宣教活動と思想形成
 一九六五年四月から、犬養は福吉地区の人々と聖書研究会を開始し、一九六六年一
月三〇日、日本基督教団福吉伝道所を開設した。筑豊に生活することで始まった宣教
を通じて、犬養は実践経験を掘り下げ、思想を形成して行った。犬養は、先ず教会の
礼拝説教、聖書学習の講話、冠婚葬祭のメッセージ、様々な牧会活動などを担った。
さらに収入を得るため、地域の専門学校教員、土木工事労働者、農業労働者、トラッ
ク運転手などを始め数多くの職についた。妻素子も保育の仕事に無給状態から携わる
という生活だった。労多い生活だったと想像し得る。そのような生活の中で、犬養は
その関心と活動を教会内部に収束することなく、地区の住民との日常生活での細やか
な繋がりを丁寧に深めていった。その生活者としてのあり方ゆえに、犬養は自らの思
索を鍛え深める重要な現場を獲得することができたといえるだろう。
 他方、社会問題への参与も犬養の宣教活動と思想を形づくっていった。一九七〇年
にカネミ油症被害者であった紙野柳蔵との出会いは大きな体験となった3。紙野はカ
ネミ油症裁判の原告支援を当時彼が所属していたルーテル教会を始め幾つかの教会の
牧師に呼びかけたが、協力を拒まれるという痛ましい体験をした人物だった。その紙
野から書簡を受け、「無関心は、公害殺人の、加担者です」(犬養,1998,(下),
p.26.および、紙野,1993,pp.367-368.)との紙野自身のキリスト者としての自戒も
込めた言葉が契機となり、犬養は「カネミ油症を告発する会」を結成、以後二〇一二
年にまで及ぶ長期の活動を開始した。
 更に一九七四年、犬養はかつての強制連行被害者であり、日本に残留して強制退去
処分の仮釈放を求めていた在日朝鮮人金鐘甲(キム・ジョンガプ)の保証人として裁
判闘争に参加した。さらに人権活動家でもあった在日大韓基督教小倉教会牧師の崔昌
華(チェ・チャンファ)と連帯して在日朝鮮人に対する戦後補償問題、反差別・人権
問題への積極的参加を続けた。また一九七七年、最初のフィリピン訪問を行い、それ
以降、台湾、韓国、インドなどへの訪問と人々との交流によってアジアの民衆とその
声に聴く姿勢を強めた。犬養はそれらの宣教活動を通じた体験と省察に基づいて精力
的に発信し続け、多数の出版物を刊行した。二〇一一年三月、七十一才となった犬養

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は福吉伝道所を閉所。妻素子や家族とともに長崎県松浦市に転居した。一九六五年の
最初の出会いから数えて四十六年間に及ぶ筑豊での生活と宣教の働きであった。
 以上のような歩みの中で、犬養は、「公害、人権、アジア、そして筑豊」4という歴
史と社会の現場からの挑戦を真摯に受けとめようと努め、他方では、高橋三郎の聖書
思想、また筑豊と沖縄の民衆に深く関わったドキュメンタリー文学者の上野英信の思
5、さらに韓国の民衆(ミンジュン)神学の思想などとの対話を継続して行った。
そして何よりも彼自身が聖書の思想を問い、時に問い返されながら、実践の場でその
特色ある思想を形成し、従来の宣教思想を変革していったのである。
3.「苦学」としての筑豊宣教
3-1.実践の批判的省察
 犬養の幼少年期から思春期、一九五〇年代前後は、第二次大戦敗戦後の日本再建の
時代に重なっている。歴史家荒川章三によれば、一九六〇年代以降、停滞から経済的
豊かさの過程に移行した日本社会は、同時に様々な面で社会が切り分けられていく過
程をたどった。その一環として地域や産業による切り分けが進行し、「太平洋沿岸と
瀬戸内に建設された石油コンビナート建設は、九州と北海道の炭鉱のスクラップ化を
促し、大量の労働者が転業・失業を余儀なくされた」(荒川,2009,pp.14-15.)。石炭
から石油への国家的エネルギー政策の転換によるスクラップ・アンド・ビルトの追求
は、筑豊においては炭鉱労働者から就労機会を奪い、貧困に陥らせ、自尊感情と生活
意欲を奪うという人間に対するスクラップ化の暴力となった6
 一九六一年、犬養が初めて筑豊を訪れたとき、筑豊が直面していた社会的状況と
は、スクラップ化政策による荒廃が地域ぐるみで深刻化している過程だった。犬養は
同志社での安保条約阻止闘争の挫折体験を通じて政治的危機感を抱いていた。その最
中の筑豊との出会いであった。彼は零細炭鉱の閉山地区だった鞍手郡鞍手町新延地区
の六反田・七ヶ谷・泉水で、「筑豊の子どもを守る会」の活動に参加した。当時、同
会は困窮の中にあった炭鉱離職者の家庭の子どもたちを対象に学習指導や交流などの
支援活動を行っていた。その活動を通じて犬養は筑豊の状況にさらに深刻な危機感を
抱いた。その思いについて「『日本の国は駄目になる』と本気で思っていたけれど、
もう駄目になっている日本が『筑豊』にあることなどまったく知らずにいたのだ」と
述懐している(犬養,2009,p.92.)。こうして犬養の筑豊への関わりが始まった。
 犬養を含む学生たちは「筑豊の子どもを守る会」の活動を通じて、筑豊の日本基督
教団の多くの教会が困窮する住民を援助の対象として熱心に関わりながら、しかし決
して物質的援助以上の関係を積極的に築かない関わり方に気づく。彼らは教会の姿勢

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を批判するようになり、同会の活動は地域住民に対する物質的援助を越えた人間的交
流関係を志向していった(犬養,1998,(上),p.249.)。しかし、さらに五年間余り
を経て、犬養は「筑豊の子どもを守る会」の活動をふり返って、その当時の思想的未
熟について自己反省をこめて語ることになる(犬養,2009,pp.105-106.)。犬養の自
己批判は、筑豊住民との関係にこだわりながら、人々の真の必要を深く理解しないま
ま、もっぱら一方からの関わりを求めていた自分自身への無自覚という点にあった。
そこには具体的な活動を関係の現場で担いながら、それをふりかえりつつ、相互関係
のあり方を自己批判的に省察して、それを言語化するという犬養の思索の姿勢が垣間
見える。その営為に犬養の思想における現場の実践と体験のふり返りを通じた思想形
成の原型ともいうべき実例を認めることができるだろう。
3-2.実践的知
 筑豊との出会から四年後、犬養は福吉の住民になった。教会の専業牧師として生活
ができない家計事情から転職の続く生活であったが、犬養はそれを「ぼくは『筑豊』
に就職した」(犬養,2009,p.102.)と表現した。しかし、その生活はかえって地域
住民の身近に身を置く機会となり、それ故に繰り返し自らを問われる体験を得る過程
となったともいえる。その過程で犬養は、その思想を社会批判的方向のみならず自己
批判的方向にも深化していった。筑豊宣教七年目の一九七二年、それまでの体験をふ
り返って彼は次のように語っている。「七年目をむかえて言えることは、『底辺』の問
題が見えるようになるためには、自分が変わらなければダメだということである。自
分を確立しておいて、『底辺』を見ようとしてもそれはムリである。そして本来人間
は変わることを欲しないものであってみれば、具体的な一つ一つの事件を通してムリ
ヤリにイヤイヤ変えられるというにがい体験を通して、徐々に見えるものにさせられ
ていくようである」(犬養,1998,(下),p.144.)。社会批判的な洞察が可能になるに
は、そこに自己批判的な洞察が伴うことなしにはあり得ないというのである。
 犬養は、筑豊に生きる人々が強いられている困難と課題を受けとめようとしなが
ら、それに関わる自分自身を問い返す必要に気づき、自らの変革に葛藤しながら自己
省察を試みていったといえる。さらに犬養は次のようにも述べている。「『筑豊』を知
ることは、『筑豊』を知らないで歩んできた自分が、『筑豊』を知ることによって新し
い自分に変えられて歩みはじめること、そのことを踏まえないで、一生懸命であるこ
とは危険なことだと知らされた」(犬養,2009,p.92.)。「一生懸命であること」と表
現したのは犬養が宣教活動と考えて努力を重ねていた営みのことであろう。その活動
が筑豊の人々にとって、人々の生に関わって意味ある営みであるためには、犬養に
とって自らの知の意味が批判的考察の対象でなければならなかった。その考察に立っ

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て彼の知が新たな知として刷新されたならば、同時に刷新された実践が始まる。彼に
とって「知ること」は「変えられて歩みはじめること」という変革を意味する実践的
概念でなければならなかったのである。
 宣教の現場で活動した犬養の歩みには、以上のような知のあり方がしばしば表れて
いる。知が新たな実践を彼に開き、実践が新たな知を彼に開くという体験である。紙
野柳蔵の「無関心は公害殺人の加担者だ」との思いを知ったことが契機となってカネ
ミ油症裁判の闘いに決断したことは前述したが、その闘いは犬養の人生においてその
後三十数年間に及ぶ実践となり、その闘いの中で犬養は社会と人間と教会に関わって
新たな知を獲得し続けて行った。犬養は現場における知と実践の動態を深く体験し理
解していた。
3-3.宣教―福吉の苦学
 一九七一年、犬養は六年間の筑豊宣教の経験と思索を初めての単行本『筑豊に生き
て』として刊行した。犬養の日々の苦闘から生まれた『月刊福吉』掲載の文章を主と
した内容であり、その「あとがき」に「このようにまとめられたものを読み返してみ
て、とにかく福吉という与えられた場で、精一杯闘ってきたことだけはいえるように
思う」(犬養,1971,p.274.)との心情を吐露している。筑豊の抱える問題と取り組
んできた彼なりの精一杯の歩みを広く知ってもらえることに高揚する思いを抱いてい
たことが窺われる。しかし、同書に寄せられた様々な反応の中に犬養の宣教の姿勢を
厳しく問い返す批判が返ってきた。同志社の先輩で、大阪で釜ケ崎に関わって働いて
いた小柳伸顕牧師の批判であった。小柳はこの本に疑問を呈した。具体的には犬養の
記述において筑豊の人々の発言が、人々が語った筑豊の言葉ではなく犬養と同じ「大
阪弁」となって記されている点に疑問を投げかけたのである。
 小柳の問いかけに直面したことによって、犬養は「自分の枠組みしかなかった」と
いうタイトルで以下のように記している。「君と話している『筑豊』の人々が、なぜ
大阪弁を話しているのかという小柳伸顕さんの問いかけは、ぼくには大きな問いかけ
だった。そしてこの場合『大阪弁』というのは、都会育ちであるとか、大学出である
とか、クリスチャンであるとか、牧師であるとか、男であるとか、そういった諸々の
ぼくの持っている枠組みの総称だと知らされた。枠組みのない人間などいないから、
皆自分の枠組みでしか対象をとらえられない。問題はそのことに気づいているかどう
かだと思う」(犬養,2009,p.104.)。この内省を経て、犬養は『筑豊に生きて』を絶
版にした。しかし、絶版とした後、犬養はこの事件を忘れたい恥辱として封印するの
ではなく、むしろ自らの実践とふり返りの中で起こった重要な経験として、そこから
新たな学びを得た体験になったという理解を繰り返し語っている。自己を相対化しう

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る犬養の思索の開放的な性格というべきものが示されている。
 犬養はその後四十年間余りの宣教の歩みの中で自己批判的内省を重ねていった。犬
養自身の言葉では「長い『福吉の苦学』を経験しなければならなかった」(犬養,
2009,p.100.)という一連の体験である。これは、かつて足尾鉱毒事件の告発を被害
農民の中に身をおいて担おうとした田中正造の「谷中の苦学」に倣う意味で語られた
言葉であった。犬養にとって宣教とは「教える」に先だって「学ぶ」営みであった。
しかもそれは机上の学びではない。人々の間に生活して、人々の生に学び、聖書に問
い、問われ、祈り、実践する、その連続の中に可能となる学びであって、その営みな
しに「教える」に値する知はありえなかった。このような「福吉の苦学」とはキリス
ト者としての犬養の回心の営みだったともいえるだろう。
4.宣教の思想の変革
4-1.民衆―宣教の主体
 犬養は『筑豊に生きて』から十年間後の一九八一年に二冊目の本『弔旗―筑豊の一
隅から』(以下『弔旗』)を出版した。前著での犬養の思想が、他者との関係性を欠い
た姿勢として犬養自身によって批判的に克服を図られることになった経過は前節に述
べた。それに対して後著は筑豊の人々との相互的関係性をめざした犬養の模索を示す
実践の記録である。かつて「筑豊」に生きていると表現した犬養の自己理解は、その
十年後には「筑豊の一隅」に生きてきたという限定を付され、地域の隣人との相互的
関係性を築く具体的な実践とふり返りが語られる。宣教思想の転換を語る言説ではあ
るが、先ず何よりも人間学的記録として蓄積した言説であった。「弔旗」というタイ
トルが示すのは、筑豊の人々の死を通してその人々の生に眼差しを注いだ犬養の経験
と思索である。その蓄積の過程が犬養の中に進んでいた。
 『弔旗』において、犬養は彼が筑豊で出会った人々の臨終を記録し、遺族への弔意
と故人の人生に対する彼の思念を語り続ける。その姿勢は「まえがき」から「あとが
き」まで一貫している。同書は二部からなり、第一部はキリスト教関連の人々の葬儀
や記念会などで語った故人に対する追想と出席者への勧めである。それに対して第二
部は同書の三分の二を占めるが、必ずしも犬養が牧師職務として語った弔意や勧めで
はなかった点を見逃せない。その大半は犬養が福吉で交わりを得た地域の住民につい
ての記録であり、かつて炭鉱で働いて年老い、人生の終わりを迎えた労働者やその家
族の生と死の記憶である。さらに犬養はそれらの人々の葬列に加わって野辺の送りを
する一人であった。
 犬養はキリスト教徒や教会での人間関係の枠組みを越えて、何故に第二部の人々の

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記録を蓄積したのであろうか。彼自身は以下のように述べている。「福吉の人々の死
は、多くの場合誰も注目する人のない寂しい野辺の送りであって、これが日本の近代
化をその底辺で支えた産業戦士たちを葬る日本的な葬り方であるかと思うと無性に腹
立たしく誰の葬儀に出ても涙がとまらなかった」(犬養,1981,pp.89-90.)。犬養は筑
豊宣教の出発点において、エネルギー政策転換のもとに切り棄てられた筑豊の炭坑労
働者の困窮に触れて、自らの宣教活動を方向づけてきた。犬養は葬列に加わった民衆
の死において、不当な死とも言うべき民衆の死を創り出す資本と権力の罪を見のがし
ていなかったともいえる。民衆への共感と国家政策がもたらす非人間的な現実への憤
り、そして犠牲を強いられた人々の癒しと社会の公正を求める願いが、犬養の「無性
に腹立たしく」、「涙がとまらなかった」体験の根底に流れていたというべきだろう。
 しかし、犬養は彼自身を人々の苦難をめぐる社会の不正と無知に対する罪なき告発
者や代弁者の立場に置いて認識していたのではない。犬養の批判精神はその批判が繰
り返し彼自身に帰ってくる性格のものであった。彼は、自分が野辺の送り人として同
行した被葬者たちの体験した過酷だった炭鉱労働と、石炭斜陽化以来の「苦しい生
活、精神的な動揺、死んで行った一人一人の生活史にはそれらの歴史が刻まれている
はずなのだが、…中略…、その重みを見ぬ抜くにはあまりにも不適格すぎる」と自己
批判する(犬養,1981,p.90.)。彼が知り得たことを書きとめ続けた動機は、それら
の労働者の苦難の生を知っているという自負からではなく、むしろいまだそのような
民衆の生を深みから知りえない者であるという自己批判の故であった。犬養の自覚で
は、彼はここでも民衆に学ぶ苦学者である他になかったのであろう。
 犬養の聖書の読み方もまた、その民衆に学ぶ苦学者としての特色を示している。小
柳の批判から内省を深めていた頃、一九七二年二月一五日の『月刊福吉』第一六二号
で、犬養はヨハネ福音書十章一九節をテキストに「マルタの一家」と題して、マルタ
の家庭がイエスと信愛で結ばれながらイエスに敵対的な人々をも含めて、地域の人々
とも深い交流を築けた家庭だと論じている。その理解に照らして、自らの筑豊での生
活をふり返り、「ぼくは福吉における僕らの家庭のことを考えずにおれない。『信仰
的』『福音的』『聖書的』という『律法』で、福吉と対立し、福吉を裁いて来た歩みの
とりかえしのつかない罪を思う」(犬養,1998,(下),p.132.)と述べている。
 「福吉と対立し、福吉を裁いて来た」と言う告白には、その根拠となる具体的な出
来事があったと思われる。炭鉱閉山後の福吉では生活保護受給者となった後も、厳し
い生活の必要から密かに就労する人々が多かった7。それに対して、犬養は人々の困
窮や生活保護制度の不備を理解しながらも、保護費と賃金の両方を得るために密かに
働く人々に対して、それは不正な生き方だと厳しく批判した(犬養,1971,pp.25-
27.)。しかし、その犬養の批判はかえって犬養自身に問いを突き付けた。彼は人々の

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過酷な現実を知れば知る程、彼自身の人々を受けとめる姿勢に問題を認めざるを得な
くなった8。先のヨハネ福音書のテキストの読み方には、宣教の現場での人々との交
流の中で、時には葛藤も含めた関係を通して、自らを問われつつ聖書に向き合い、テ
キストの理解と自己省察を深めようと試みた犬養の姿勢を見ることができる。
 犬養は、筑豊の人々との出会いの体験を、自己省察とその省察の姿勢を重視する聖
書の読み方とに結びつけた。さらに言えば、現場での民衆との出会いの経験、周縁か
らの視点に立脚した自己省察、そのような自己省察の問いを持続して掘り下げる聖書
理解、それらのベクトルの交錯の中に犬養の宣教の思想が変貌を遂げて行ったといっ
ていいであろう。犬養は、二〇〇九年に四四年間の筑豊宣教をふり返って、筑豊の
人々に対する自らの考え方がどのように変わったかを「おらぶ神、黙す神」と題する
エッセイで述べている。筑豊宣教開始の頃、犬養は「福吉伝道所にはイエス・キリス
トがおられる、この『筑豊』の暗い谷間に光が来たのだから、多くの人々に福吉伝道
所に来ていただいて光にふれて欲しい。また努力してこの暗い谷間に福吉伝道所の光
を届けなければならない」(犬養,2009,p.99.)と考えていた。しかし、その考えは
四四年後を迎えて大きく変貌したという。彼は「福吉伝道所を設立しようと思ったと
き、『奉仕の対象ではだめだ』と思っていた。でも今振り返ってみると、『奉仕の対
象』から『宣教の対象』に変わっただけで、『筑豊』の人々はぼくにとって、あくま
で『対象』以外の何物でもなかったのだ。それが『対象』ではなく、むしろ『宣教の
主体』ではないかと気づくまでには長い『福吉の苦学』を経験しなければならなかっ
た」(犬養,2009,p.100.)と考えるにいたった。犬養にとって福吉の苦学の核心は
宣教の主体としての民衆の発見、そのことであった。
 ところで、民衆が宣教の主体であるという時、具体的にはどのような意味であろう
か。犬養が関わりを深めた福吉の一人の老女性との交流の記録に注目したい。彼はそ
の交流を「大事な人」というタイトルでエッセイに記し、著書に二度にわたって収録
した。上甲スギは福吉に長く暮らしてきた女性だが、既に夫を失い、息子も負債を残
して出奔し、老齢の彼女は、近隣との交わりをほとんど失った独居老人となってい
た。スギが栄養失調で危険状態となり、その救出と老人ホーム入居に犬養は骨折っ
た。こうして一九七〇年前後から一九七四年十月の彼女の死に至るまで、犬養はスギ
との交流を深めて行った。ある日スギは犬養に自らの肌身につけていた全財産ともい
うべき蓄え金を無言で差し出した。それを犬養はスギに受け入れられた出来事だった
と回想している。その出来事のあった時期、犬養は福吉の人々との関係を自己批判的
に模索していたものと思われる。後年一九八三年の回想ではあるが、犬養はそれまで
の歩みを回顧して「福吉の人たちをぼくは受け入れたと思い込んで歩んでいたので
す。福吉の人がぼくを受け入れてくれなければ本当の意味での福吉の人との出会いは

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犬養光博の宣教と思想、その霊性
41
成り立たない」(犬養,1998,(上),p.101.)と葛藤していた様子を記している。そ
の犬養にとってスギに受け入れられたと感じた出来事が、隣人と共にある生を示すき
わめて深い体験となったことは確かであろう。
 犬養の聖書の読みとり方もこの出来事によって刷新する経験をしていると思われ
る。一九八三年に犬養が記した「ザアカイ物語」(ルカ福音書一九章一節~一〇節)
の解釈として、彼はイエスとザアカイという収税人の間の相互受容に注目する。ザア
カイはその職業から当時のユダヤ社会では賎民視の対象となる人物であった。犬養
は、イエスはザアカイに一夜の宿を懇願することを通じて自らを受容してもらうこと
をザアカイに求め、ザアカイはそのイエスの願いに答えることを通じて、イエス・キ
リストと繋がる救いに受け入れられたという。いわば両者の相互受容がザアカイの人
生を閉塞から解放することを可能にしたと読みとるのである。このテキスト理解は、
犬養の福吉の人々との労を惜しまない真摯な交流体験と分かち難く結びついている。
「ザアカイ物語」の読み解きの結末に犬養は次のように述べる。「ぼくは、キリスト教
信仰とは何の関係も無いと見える一人の老婆によって、このザアカイの姿を現実に見
せつけられました」(犬養,1998,(上),p.105.)。老婆とは他ならない上甲スギで
あった。
 民衆との出会いを通じて、犬養は宣教者としての生き方を刷新される経験をたどっ
たといえるであろう。一九七九年の「エマオでの出来事」(ルカ福音書二四章一三節
~三五節)の聖書研究では、犬養は筑豊の民衆との出会いの経験と宣教の意味を結合
して理解する。「伝道とは福音を語ることだと言われてきたが、『エマオでの出来事』
に現れ給うたイエス様は、語られる前に、『近づき』『一緒に歩き』『聞き』給うた。
福音伝道はここから始まる。…中略…今日でも、『語る者』となってしまっているた
めに、本当に見知らぬ者として共に歩んで下さっているのに、そのお方をイエス様と
して認めることが出来ず、何回も何回もイエス様を素通りさせているぼくがたまらな
い」(犬養,1998,(上),p.85.)。犬養は反省を込めつつ筑豊の民衆との出会いを今
日のイエスとの出会いを可能にする出来事の現場として体験したという。言い換えれ
ば、民衆との出会いの中に今日のイエス・キリストを見いだし、そのイエスに応答し
て生きることが犬養にとっての宣教の営みであったことを意味したということであろ
う。
 以上のような模索を通じて、犬養は筑豊の民衆をキリスト教の倫理的要請に基づく
救援の単なる対象と見做す考えや、キリスト教信仰に帰依することを求める教化のた
めの単なる対象とする考えを脱出していったといえる。苦難を生きる筑豊の民衆はそ
の出会いの中に犬養がイエス・キリストに出会う経験をもたらしてくれた隣人であ
り、イエス・キリストに応答して生きる生がどのようなものであるかを犬養に示した

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人々だった。その意味で民衆との協働なしにイエス・キリストに応答する宣教の営み
はありえなかったといえる。それゆえ、犬養にとって筑豊の民衆とは宣教の対象であ
るというよりも、彼の宣教における協働者として、宣教の主体だと言わざるをえな
かったというべきだろう。
4-2.祈り―人間化としての宣教
 犬養は四六年間の筑豊宣教を通じて、当時社会問題化した幾つかの出来事に深く関
わって実践と言説を蓄積している。筑豊宣教五年目の一九七〇年には、カネミ油症被
害者の紙野柳蔵との出会いを契機として加害企業カネミ倉庫に対する告発運動に積極
的に関わり、一九七〇年八月に始まり二〇一一年三月に及ぶまで実に四二年間、五〇
〇回に及ぶカネミ倉庫前坐り込み運動として担い続けた。犬養はさらに在日朝鮮人戦
後補償問題、日韓民衆和解の課題、差別・人権問題などに精力的に関わった。多岐に
渡る活動の中でも、とくにカネミ倉庫前坐り込み告発運動は、犬養の筑豊宣教におけ
る社会的実践活動と言説の出発点となったのみならず、後の彼の実践の思想的原点を
形成し、様々な他の実践にも通じる原点となったと思われる。以下ではカネミ倉庫告
発運動での犬養の言説に即して彼の思想的原点を考察してみたい。
 犬養は一九七〇年九月一五日付『月刊福吉』第一四五号に「『カネミに毒されて』
を聞いて」と題する一文を掲載した。それは同年八月に開催された紙野の講演『カネ
ミに毒されて』9に対する犬養の感想と意見を述べたエッセイであった。その一節は、
犬養のカネミ油症告発の運動の思想的原点を端的に語っていると思われる。犬養は次
のように述べている。
    ぼくは教会の献金の感謝の祈祷が「あなた(神様)から与えられた宝の一部を
お返しします」と常に祈られながら、その実、自分の財産が神様から与えられた
ものだと考えている人がほとんど無いことを「偽り」として語ってきたのだが、
紙野さんはすべては神様のものという「主の祈り」から問題を問い直そうとされ
る。(犬養・他,1998,テント 第五集,p.176.)
 紙野自身は同講演の最後に油症加害者カネミ倉庫告発の運動について、「私は、た
だこの事だけを、私ではなくして、私たちは必ず神から造られて、財産もすべて万物
は、神のものであるという事、…中略…こういう中に、私たちは主と共に、そして主
のあとに従って」と自らの姿勢を聴衆に語っている(紙野,1993,p.28.)。紙野のカ
ネミ倉庫告発は、加害責任追及や補償要求の運動と異なり、自らを含むエゴイズムに
支配された人間の生き方と日本社会へのキリスト教信仰に根ざした深い問いとなって

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いることがわかる。
 犬養は紙野の問いを自身の問いとして受けとめている。冒頭の引用に先だち、「神
様のものを自分の物とするところからあらゆる悲劇がおこる」(犬養・他,1998,テ
ント 第五集,p.176.)という。いわば所有の私物化はあらゆる人間の営みに伴う現
実である。キリスト者も例外ではない。総ては神のものと祈りつつ、私物化に陥って
いるキリスト者の祈りは「偽り」となる。それ故、犬養は自らの祈りの真実を内省す
るのである。犬養にとってカネミ倉庫告発の運動は、人間としての生き方を他者に問
いつつ、キリスト者としての祈りにおいて自らに問う営みだった。その告発は一方的
なものではありえなかった。一九七二年の「集いの家」と題するエッセイの中で、犬
養は「公害問題をとおして、人間とは何か、生きるとはどういう事かに眼を開かれた
者は、その問題を担う以外に自分の生きる道はないことを知らされているからだ」
(犬養・他,1998,テント 第五集,p.190.)と心境を述べる。一方でカネミ告発運
動を進めながら、他方で犬養自らの人間としての生き方を問う内省が続いている。
 紙野家の人々との対話は、犬養の思索をさらに深く導いた。一九七二年のエッセイ
「『坐り込み』に思う」で、犬養は次のように述べている。「紙野さんの呼びかけは一
言で言えば『人間らしくなろう』であり、『良心をとりもどそう』です。従業員だけ
でなく支援者も、被害者もいかに非人間的になっているかを四年半の運動を通してお
じさん達(紙野とその家族:筆者)はいやというほど見せつけられて来たのでしょう
ね。『どこへ行っても人間はいなかった』(紙野の言葉:筆者)と言われるとおりで
す。会社にしばられ、役所にしばられ、大学にしばられ、『…・会』にしばられ、本
当に人間はどこへ行ってしまったのだろうと、僕も思います。」(犬養・他,1998,テ
ント 第五集,p.195.)。カネミ油症問題をめぐる加害企業、関係省庁、九州大学医
学部、被害者団体などの補償をめぐるそれぞれの組織の保身や打算のエゴイズムに縛
られた人々の姿に良心的人間の不在を見たことで、犬養は人間と人間の関係を問うと
いう坐り込み告発運動の独自の意味を自覚していったといえる。
 犬養は、坐り込み告発運動を通じて、所有の私物化と支配によって他者を犠牲にし
ながら自他ともに偽り続ける生き方をそれぞれの責任において自覚し、罪を罪として
認めて謝罪し、その上に立った新たな関係を形成することを求めたともいえる。一九
七四年七月、犬養はカネミ倉庫付近で偶然にも同社長加藤三之輔と出くわし、道すが
らしばらく会話をする機会を得た。その後、犬養は加藤に対して書簡を送って対話を
呼びかけたことがある。彼はその書簡の中で「ぼくはそのあなたの中にある人間加藤
三之輔に触れたいのです。ぼくたちの坐り込みも紙野さんの坐り込みもその触れあい
を祈りとして始められ、続けられているのです」(犬養・他,1998,テント 第五
集,p.213.)と述べている。書簡は厳しい批判も交えて語られており、犬養の言葉は

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社交辞令ではない切なる願いを直截に述べたものであろう。この書簡に見るように犬
養にとって、坐り込み告発運動は権利的補償要求運動ではなく、人間としての真実な
相互関係を求める祈りに根ざした具体的な社会実践であった。それは宗教的内省に根
ざした相互の人間化をめざした宣教の実践と呼び得るであろう。この意味で犬養に
とって、人間化としての宣教を担うことは単に他者に対して回心を呼びかける営みで
はありえなかった。犬養自身が宣教において自らの人間化を呼びかけられる一人の人
間に他ならなかったのである。
 犬養は、宣教を人間化の営みとして理解する視座ゆえに坐り込み運動に対する自己
批判的な問いを掘り下げていった。座り込み運動が告発者・被告発者相互の人間化を
求める運動であるとすれば、そのシュプレヒコールやアッピールを一方的に聴かされ
るカネミ従業員に人間として関わるとはどのようなことか。坐り込みでのアッピール
は一方的なプロパガンダの押し付けではないか。また異なる宗教・思想的立場の協働
者が支え合っている坐り込み運動をキリスト者のみの思想的意味づけで括って良いの
か。犬養においてそれらの問いが全て解明しきれているとはいえないが、犬養と坐り
込む協働者たちとの対話を通じた意思として、坐り込み運動は驚くべき持続力を示し
て継続した。
 その間にも犬養は在日朝鮮人戦後補償問題、日韓民衆和解の課題、差別・人権問題
などに精力的に取り組んでいった。それらはカネミ油症事件に取り組んだ四二年間と
重なりながら、いずれも筑豊の民衆の歴史と現在に深く関わる課題であった。さらに
いずれもカネミ油症事件の中に露呈した日本社会の非人間化の力に対して人間を取り
戻すための抵抗の課題として、犬養にとって坐り込み運動に通じる意味をもっていた
といえる。犬養の闘いは人間としての他者不在のエゴイズムに支配されている日本社
会に対して、人間相互の人間化、言い換えれば人間としての意識化を切望する祈りの
行動であり続けたともいえるだろう。少なくとも、その切実な祈りを抱いた犬養が、
日本社会の無関心と風化に抗して四二年間、五〇〇回の坐り込みを持続したことは事
実である10
4-3.教会―イエス・キリストの出来事の場
 犬養はしばしば教会に関わる発言を『月刊福吉』等に掲載し、また様々な機会に
語っている。彼が教会を論じる場合に「教会」と『教会』という書きわけが随所に認
められる。その意味を理解することは犬養の宣教思想を考える上で基本的な着目点で
ある。「教会」と『教会』を区別する犬養の所論は、「カネミ正門前教会報告」と題す
る一九七二年のエッセイから見出される(犬養,1972,(上),pp.132-138.)。そこで
犬養は、彼に対する問いかけの書簡の送り主である一牧師に答える形式で、「教会」

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と『教会』をめぐる考えを述べている。書簡の送り主は、現実に存在する宗教共同体
としての「教会」と区別して、『教会』という「キリストの生命につながるエクレシ
アとしての教会」を想定する。いわば宗教的理念としての共同性を想定するのであ
る。犬養もまた現実の「教会」と、それとは区別される理念として、『教会』を想定
する思想には同意したうえで、書簡の主に対して、しかし、『教会』は単なる抽象の
言説に終わる空疎な概念ではないと考える彼の持論を二つの視座に拠って展開する。
 第一に犬養は『教会』の「大きさということ」を強調する(犬養,1972,(上),
p.134.)。犬養は水俣病公害の責任を問う運動を市民運動ではなく死民運動と表現し
た石牟礼道子の思想を具体例にあげて11、そこに生者と共に死者さえも連帯して闘う
霊的次元を伴った運動の存在を指摘する。さらに犬養は高橋三郎の聖書思想と祈りに
触れて、聖書的宗教の過去の担い手たちが時空の隔たりを越えて現在の犬養と精神的
に交流し、勇気を与えられる実体験を得たと言う。その体験を「信仰的な交わり」と
理解して次のように述べる。「僕たちはこの地上の生活をあまりにも絶対視し過ぎて
いるのではないでしょうか。僕たちが『教会』をもそのような次元で考えているとし
たら、聖書が語っている『教会』からずい分逸脱していると思う」(犬養,1972,
(上),p.136.)。犬養にとっての『教会』とは、時空の限界を越えた生者と死者との
現在における交流と協働のネットワークともいうべき概念であるといえよう。それゆ
え、そのネットワークは個別共同体としての「教会」をはるかに越える共同性であ
り、現在の人間の運動をも創出する活力を持つ存在と考えられるのである。
 第二に犬養は『教会』における連帯の形成に注目して次のように述べる。「第二の
問題は、『教会』に連なる、連なり方です。それは具体的な人格を通して、と僕は言
いたいです。『教会』に連なっている具体的な人格に出会い、その人格に連なること
によって『教会』に連なる。それ以外の方法を僕は知りません」(犬養、1998,
(下),p.136)。犬養は、人格同士の結ぶ連帯が『教会』のネットワーク的共同性を形
成するというのである。さらに言えば、そのような『教会』ネットワークの連帯は
「イエス・キリストと言う一人の人格」との出会いに発すると考えるのである(犬
養,1998,(下),p.137.)。しかもイエス・キリストとの出会いによって絆を得る
『教会』ネットワークは、「教会」の枠組みを遥かに越えて、さらに様々な他者との連
帯を伴って形成されていくのである。
 このように展開した『教会』の思想から、犬養は、「教会」のみがイエス・キリス
トとの出会いの場であるとする考えに疑問を付して、「教会」だけに止まらず、すで
に世界で働いているイエス・キリストとの出会いの場として歴史と社会の現実を捉え
ることができた(犬養,1998,(上),p.89.)。それは彼にとって宣教の実践の意味と
可能性を大きく広く開いて行く視座であったといえる。すなわち彼の生きる現実の世

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界を、イエス・キリストと出会い、様々な人々と連帯して行動する現場として理解し
た時、犬養は前節に触れたように筑豊の民衆との出会いの経験の中で今日のイエスを
見いだし、そのイエスに応答して生きるための社会的な行動力を発揮し得たといえ
る。彼が関わりを深めた社会的課題において、犬養は単にキリスト教社会倫理の実践
を追求したのではなかった。むしろ犬養の社会的活動は、彼にとってイエス・キリス
トとの出会いを人々との連帯の中でさらに新たに経験していくことを意味したのであ
る。
 以上のことを再び「教会」と『教会』との関係に関わる事柄として考えれば、犬養
にとって、「教会」はその存在の意味を『教会』ネットワークとの絆において繰り返
し自己省察するべき存在だということであろう。しかもそれは具体的な課題であっ
た。例えば、犬養は筑豊の「教会」の宣教を論じるに際して、筑豊の民衆との関係で
「教会」は何者でありえたかを批判的に問う言説を一貫して語っている(犬養,
1998,pp.244-245.)。犬養は「教会」を筑豊の民衆の世界の中に置いて見つめていた
といえる。犬養にとって「教会」が『教会』との絆を真剣に生きるということは、自
らを民衆の生の現実から切り離してはならないことを意味した。筑豊の民衆の中にす
でにイエス・キリストが働いているならば、「教会」は自らの内部か外部かの違いを
問わず、民衆の中におけるイエスの働きに連帯していくことによって、『教会』との
絆を生きるからである。
 一九七二年のエッセイに犬養が記した「カネミ正門前教会」の具体的な姿は、カネ
ミ倉庫の正門前で、小屋掛けして座り込み抗議を行った紙野柳蔵一家と支援者たちの
活動と交流の出来事であった12。犬養はその小屋掛けにおいて協働した人々の連帯を
「教会」と表現したのであったが、その表現は『教会』との絆を生きようとする真の
「教会」の姿を証言しようとした試みだったといえよう。それから三七年間余りを経
て、福吉伝道所の閉鎖を二年後にした二〇〇九年、犬養は自らの筑豊宣教の総括とも
いえるエッセイを次のように結んで終わっている。「教会は、宣教する場所ではな
く、イエス・キリストの出来事が起こっている場所である。そこにテント掛けしてで
も参加させていただき、出来事がなくなったらテントをたためば良いと思っている」
(犬養,2009,p.128.)。ここには、福吉伝道所という「教会」において、イエス・キ
リストの『教会』との絆を何にもまして追い求めた犬養が、民衆との連帯の闘いを通
じて学び続け、ついに到達した教会論の確信と決意が如実に示されているといえるだ
ろう。

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5.明識の霊性―結語にかえて―
 一九六〇年代、日本社会の分断が筑豊の石炭産業と地域と元炭鉱労働者のスクラッ
プ化となって進行した唯中に、犬養はキリスト教宣教の実践を始めた。彼が筑豊宣教
に就いた一九六五年の大学(学部)進学率全国平均は一二・八パーセントである13
同年代の十人に一人強という限られた人だけの教育だった。同志社大学大学院修了と
いう犬養の学歴は、筑豊の民衆の間では稀有の事実であった。しかも時代の状況下
で、社会分断の故の貧困に苦しむ筑豊の民衆の教育達成が如何に困難であったかは想
像に難くない。犬養の福吉定住後、数年を経た一九七二年当時と思われるエッセイで
も、犬養は彼の知る範囲では「中学を卒業して高校に進学する生徒はごく少数でしか
いない。ほとんどが県外就職する。その仕事もほとんど肉体労働、単純労働である。
大学は現在までたったひとりあっただけである」(犬養,1998.(上).pp.141-142.)と
述べている。
 筑豊の民衆に押しつけられた閉山後の社会分断の一つの結果が貧困であったとすれ
ば、貧困を大きな要因とする教育達成の困難と中学卒業後の若年労働の実態もまた、
その社会分断の一つの結果として見ることができるであろう。犬養が筑豊で越えなけ
ればならなかった分断の壁が、彼の享受した近代高等教育による知と、筑豊の民衆の
労働と生活から紡ぎだされる知との間にも存在していたことを示唆している。そうし
た知の隔たりの中で、犬養は筑豊の民衆の間に生きて自らの知を―そのキリスト教理
解を含めて―根底から問われる経験をしたのである。犬養は民衆の知と彼の知の懸隔
の関係を自らが変えられる方向で越えなければならないと考えたのであり、そこでは
犬養が身につけてきた既存の知の内容のみならず、民衆からの新たな知を如何にして
学ぶかということが重要な問題となったのである。犬養が自分の知の変革の過程を福
吉の苦学と名づけたのは、そのことを物語っているだろう。
 犬養はある講演で上野英信が『地の底の笑い話』の冒頭に記した鹿児島の民衆の歌
(俚言)という次のことばを紹介している。
  歌は 唖(むご)に聞きやい
  道は めくらに聞きやい
  理屈ゃ つんぼに聞きやい
  丈夫なやちゃ いいごばっかい
 この言葉を犬養は「私たちは、歌は上手な歌手に聞き、道はよく目の見える人に聞
き、理屈は悟った人、宗教家に聞いているが、恐らく上野先生は、その事がひっくり

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かえしたところにある、本当の歌、本当の道理や道が筑豊にあるのに、そのことに気
づかないのか、というメッセージであると思う」(犬養,1998,p.339.)と説明す
る。注目すべきは「聞きやい」という促しに応答する犬養の苦学のプロセスである。
犬養の思想を捉えるには、その苦学のプロセスにおける彼の学びの流儀を知らねばな
らない。それは身を持って民衆との生活の交わりを築き、直面する問題に共感をもっ
て関わり、時には闘いを担う実践の過程を歩むという営みであった。その営みの中で
言葉を紡ぎ出す作業が実践の批判的考察であった。犬養は繰り返しその批判的考察を
通じてもたらされた知と彼自身との関係性を問うた。
 その犬養の自省的精神の志向は「明識の霊性」と表現できるであろう。その場合の
明識とはいかなる意味なのか。それは知の社会的文脈における意味として理解するこ
とができるだろう。社会学者野村一夫は、人間が発することばは、より明確には広い
意味での「知識」だという(野村,2003,pp.25-56.)。その上で知識を二つの類型に
区分できるという。第一は「情報(information)としての知識」である。これは自
然科学的な発想の知識であり、研究対象と研究主体を明確に分離して研究対象を分析
して得られる知識である。野村はその探求の根底には支配への欲求があると見てい
る。第二は「明識(awareness)としての知識」である。「自覚」「(自己)意識」「自
己認識」「省察」「洞察」「覚醒」「覚識」などとも訳される。いわばこの知識は対象と
の関係において自己言及を伴って形成する知識である。
 この第二の意味における知識の形成は、犬養の知の形成と性格において如実に現れ
ていると言っていいだろう。野村は明識の知についてさらに注目すべき指摘をする。
すなわち明識としての知は、情報と違って主体(知ろうとする者)の存在を決して度
外視しない。言い換えると、明識としての知識は「人びととの共生関係としてある社
会的世界について、つねに自分自身との関係で反省的に理解するための知識―すなわ
ち「反省的知識」―である」という(野村,2003,pp.28-29)。それゆえ「それは最
終的には〈自分は何者であり、どこにいるのか〉を問いかける」(野村,2003,p.29)
のであるという。
 共生関係としてある社会的世界について自己への問いかけを営みつつ知の刷新と新
たな形成に挑戦し続けるという姿は、まさしく犬養が終始追求した宣教において見出
されるのではないだろうか。それゆえ戦後日本の分断の軛を強いられた民衆の中に身
を置き続けた犬養の筑豊宣教において、目前に生きる隣人との連帯と共生の課題に真
摯に直面して、「明識の霊性」を生きようと試みた一人の戦後プロテスタント・キリ
スト者を鮮やかに見ることができるのである。
 犬養は「明識の霊性」を生きようと試みた。民衆の間に「苦学」して生きる中で聖
書に問い問われ、そこに生まれる祈りを人間化への闘いとして具体化し、イエス・キ

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リストへの応答を生き得ると考えた。本論考の第1章に犬養の宣教思想は共生社会を
めざす実践における人間学的課題を示唆していると指摘した。哲学者花崎皋平は、
「共生」言説が氾濫し、キャッチフレーズ化しつつある日本社会の現状に「共生が含
み持つ共苦の側面、現実の矛盾との現場での格闘を切り離す作用」があると警鐘を鳴
らした(花崎,2002,p.132)。その警鐘に応答して現代の共苦の現場を見極め実践に
着く人間の生き方を考えざるをえない。犬養の宣教思想と霊性はそのための一つの方
向を示している。
1
このような有機的理解の試みは戸村政博、朴聖焌らの研究に負うものである。「われわれは、実践
を、神学と対立する概念としてではなく、それ自身が一つの神学的営為であると考えることから出発
したいと思う。」(戸村,1989,424.)。「真の意味での神学の営み(doing theology)は神学者の生と
一体をなしており、両者を分離してしまえばどちらもその実体は真実に究明されえない、と私は信じ
ている」(朴聖焌,1997,7.)。戸村、朴の両者の指摘は、神学が、生における、さらにまた実践にお
ける表現でもあることを示唆する。
2
この方法としての可能性に関して、ドナル=ドールは次のように指摘する。「私たちの霊性は、私た
ちの提案する理論による以上に私たちの行為や反応(act and react)によって示される。暗示的
4
4
4
(implicit)な神学は、私たちが反省的考察をし、それを表現することができるならば、結局は明示的
(explicit)なものとなる」(Dorr,1985,p.8.)。
3
カネミ油症事件とは一九六八年に西日本を中心に全国で1万4千人余りの人々が被害を訴えるに至った
日本国内最大の食品公害事件であった。北九州市のカネミ倉庫株式会社が製造した食用油に化学物質
PCB(ポリ塩化ビフェニル)が混入し、それを摂取した人々に重症の障害が現れ死亡するに至った人
もいた。一九七〇年以降、カネミ・カネカ(PCB 製造企業)・国を被告として被害賠償裁判などが争
われ後に暫時和解した。しかし完全な被害者救済は見ていない。いまだ治療法は確立していないし、
次世代への影響も未知である。症状などのゆえに差別をうけた事例もあり患者の苦しみは深刻であ
る。
4
山本比呂比古(香月茂美)は、犬養の取り組んだ社会的課題を四つの領域に分類している。本稿は山
本の見解を妥当と考えその分類にならっている(犬養,1998,(下),p.392.)。
5
犬養は、上野英信から多くを学んだことをしばしば語り、「上野先生を『日本の民衆神学者』だと」
思ってきたと述べている(犬養,1998,(下).p.371.)。とくに、犬養が筑豊とそこに生きる民衆を
理解し、筑豊におけるキリスト教宣教の意味を批判的に問い返す営みにおいて、上野は深く影響を与
えた人物であった。
6
犬養は『月刊福吉』第一五八号に筑豊・田川教会の牧師であった内田正秀の記述を引用して、人々に

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強いられた人間のスクラップ化を説明する。「そしてこの石炭産業の損害は再び労働者にしわ寄せさ
れた。そのしわ寄せを可能にしたのは一つのキャンペーンであった。すなわち、石炭は石油に切りか
えられる、燃料革命でもういらなくなるという認知が、だから石炭を掘っている者もいらなくなる、
おまえたちは社会的に無用者となった、存在価値がなくなったのだというふうに取り扱われたのであ
る。このことが炭鉱労働者にも社会一般にもしみこんだあと、自己自身の存在理由を見失った炭鉱労
働者は、その生存権の主張をいつかあきらめるに至った。一般社会人も、彼らに若干のあわれみを感
ずる意志を失わなくとも(『黒い羽根募金運動』等)、実のところ、彼らがどんなになっても仕方がな
いのだ、無用者なのだから、という気持ちになっていった。こうして一つの考えが炭鉱の人々と社会
にゆきわたったあと、犠牲を彼らにしわ寄せする事を妨げるものは、なくなったのである。しかもこ
れは結果として起きたのではなく、石炭産業斜陽という事実の報道が、『本来の意味をこえて政治的
に利用され(高橋)』たものなのである。一つのキャンペーンが何万という人々とその家族の『人間
スクラップ』をすすめるという恐ろしい事件なのであった(白水洪平「筑豊失業地帯」堀江正規編
『日本の貧困地帯上』所収参考)」(犬養,1998,(上),p.52.)。
7
上野英信は、かつて抗夫たちの最大の祭りであった筑豊の正月が、いまや「まるでお通夜のような感
じだ」と記し、「しかしいまはひっそりと、声さえしのばせて焼酎をのむだけだ。唄もきこえない。
だれもみな、生活保護をうちきられまいと警戒しきっている。いかにして生活を守るかということで
はなく、いかにして生活保護を守るかということに、彼らの関心と努力はいっさい集中されている。
もちろんその原因は、生保とヤミ労働の収入によって、かろうじて最低生活がささえられているから
であり、そのどちらか一方を奪われても、彼らの生活は成立しないからである」(上野,1985,
pp.181-182.)と、人々の苦渋の生活の有様を深い理解のもとに伝えている。
8
一九七九年に書かれたと推定される「『底辺』伝道」と題する文書において、犬養は生活保護受給と
「かくれて働く」という問題を、経済的貧困と精神的貧困が相乗して人間から自尊心を奪って追い詰
めていく問題と見ていた。犬養は問題の根源に利益を追求する人間の罪の問題があり、問題の解決に
はキリストを信じて得る精神の自由が欠かせないという思想にたって批判を加えていたとみてよい。
いわばキリスト教の視点から倫理的批判を試みたといえるだろう。しかし、この時点で当事者ではな
い自分に批判の資格があるのかとの疑問を付している(犬養,1998,(上),pp.146-148.)。さらに、
一九八六年の「筑豊に居つづけて」と題するエッセイでは、それゆえ「私自身、筑豊で、様々な人と
出会い、筑豊への見方、生き方を変えられていった。例えば『筑豊に生きて』で、生活保護を受けて
いる人達に、厳しい批判を浴びせた。その事で多くの摩擦を生じたが、そこから多くの人達の呻きを
聞いて、怠惰に見える生活、アル中(ママ)の生活が、実は、一つの表現であり、その呻きに耳を傾
けなければならないのに、上から裁いてしまう自分自身の姿勢に気付かされた」(犬養,1998,
(下),pp.334-335.)と述べるに至った。
9
一九七〇年八月三〇日、筑豊伝道奉仕協議会主催「カネミ問題講演会」での講演(紙野,1993,
p.427.)。

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犬養光博の宣教と思想、その霊性
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10
朝日新聞デジタル「カネミ油症座り込みに幕、42年、区切りの500回」と題する記事によれば、「元牧
師の犬養光博さん(72)らが結成した「カネミ油症を告発する会」が一九七〇年に始めて四二年。無
関心や風化との闘いだった」。
(http://www.asahi.com/national/update/0325/SEB201203240108.html, 09:29/2012/10/20)
11
石牟礼道子の「死民」の思想は、福岡・水俣病を告発する会機関紙『死民』第十一号に次のように述
べられている。「死民とは、市民という概念の対語ではない。いや、市民、といえば、まぎれもなく
近代主義時代に入ってからの概念だから、わが実存の中の先住民たちは、たちまちその質を変えられ
てしまうのである。まして水俣病の中でいえば〈市民〉はわたくしの占有領域の中には存在しない。
いるのは〈村のにんげん〉たちだけである。このにんげんたちへの愛怨は、たぶん運命的なものであ
る。死民とは生きていようと死んでいようと、わが愛怨のまわりにたちあらわれる水俣病結縁のもの
たちである。ゆえにこのものたちとのえにしは、一蓮托生にして絶ちがたい」(石牟礼,2005,pp.8-
9.)。
12 「カネミ正門前に座りこんで私の見たもの」と題する紙野のエッセイによれば、彼の小屋掛け抗議活
動は、そのキリスト教信仰に基づく行動であった(紙野,1993,pp.227-236.)。犬養は支援に加わっ
たキリスト者の一人として、紙野を中心としたその活動をキリスト教信仰の視点から論じたのである
(犬養・他,1998,テント 第五集,pp.194-201.)。
13
文部科学省『学校基本調査 年次統計』
(http://www.e-stat.go.jp/SGI/estat/List.do?bid=000001015843&cycode=0,09:49/2012/10/20)
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―犬養光博.(1998).『析出する祈り―犬養光博発言集― 下』告発する会。
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基督教研究 第74巻 第2号
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