記録を蓄積したのであろうか。彼自身は以下のように述べている。「福吉の人々の死
は、多くの場合誰も注目する人のない寂しい野辺の送りであって、これが日本の近代
化をその底辺で支えた産業戦士たちを葬る日本的な葬り方であるかと思うと無性に腹
立たしく誰の葬儀に出ても涙がとまらなかった」(犬養,1981,pp.89-90.)。犬養は筑
豊宣教の出発点において、エネルギー政策転換のもとに切り棄てられた筑豊の炭坑労
働者の困窮に触れて、自らの宣教活動を方向づけてきた。犬養は葬列に加わった民衆
の死において、不当な死とも言うべき民衆の死を創り出す資本と権力の罪を見のがし
ていなかったともいえる。民衆への共感と国家政策がもたらす非人間的な現実への憤
り、そして犠牲を強いられた人々の癒しと社会の公正を求める願いが、犬養の「無性
に腹立たしく」、「涙がとまらなかった」体験の根底に流れていたというべきだろう。
しかし、犬養は彼自身を人々の苦難をめぐる社会の不正と無知に対する罪なき告発
者や代弁者の立場に置いて認識していたのではない。犬養の批判精神はその批判が繰
り返し彼自身に帰ってくる性格のものであった。彼は、自分が野辺の送り人として同
行した被葬者たちの体験した過酷だった炭鉱労働と、石炭斜陽化以来の「苦しい生
活、精神的な動揺、死んで行った一人一人の生活史にはそれらの歴史が刻まれている
はずなのだが、…中略…、その重みを見ぬ抜くにはあまりにも不適格すぎる」と自己
批判する(犬養,1981,p.90.)。彼が知り得たことを書きとめ続けた動機は、それら
の労働者の苦難の生を知っているという自負からではなく、むしろいまだそのような
民衆の生を深みから知りえない者であるという自己批判の故であった。犬養の自覚で
は、彼はここでも民衆に学ぶ苦学者である他になかったのであろう。
犬養の聖書の読み方もまた、その民衆に学ぶ苦学者としての特色を示している。小
柳の批判から内省を深めていた頃、一九七二年二月一五日の『月刊福吉』第一六二号
で、犬養はヨハネ福音書十章一九節をテキストに「マルタの一家」と題して、マルタ
の家庭がイエスと信愛で結ばれながらイエスに敵対的な人々をも含めて、地域の人々
とも深い交流を築けた家庭だと論じている。その理解に照らして、自らの筑豊での生
活をふり返り、「ぼくは福吉における僕らの家庭のことを考えずにおれない。『信仰
的』『福音的』『聖書的』という『律法』で、福吉と対立し、福吉を裁いて来た歩みの
とりかえしのつかない罪を思う」(犬養,1998,(下),p.132.)と述べている。
「福吉と対立し、福吉を裁いて来た」と言う告白には、その根拠となる具体的な出
来事があったと思われる。炭鉱閉山後の福吉では生活保護受給者となった後も、厳し
い生活の必要から密かに就労する人々が多かった7。それに対して、犬養は人々の困
窮や生活保護制度の不備を理解しながらも、保護費と賃金の両方を得るために密かに
働く人々に対して、それは不正な生き方だと厳しく批判した(犬養,1971,pp.25-
27.)。しかし、その犬養の批判はかえって犬養自身に問いを突き付けた。彼は人々の