事件から48年、ようやく再審決定。日本最大の冤罪事件「袴田事件」をいま一度振り返る

社会

更新日:2014/8/6

 今年の5月19日、ある元ボクサーが世界ボクシング評議会から名誉チャンピオンベルトを与えられた。その人物の名は袴田巌、78歳。後楽園ホールでベルトを腰に巻き、嬉しそうにVサインをする袴田は1966年に強盗殺人、放火、窃盗の疑いで逮捕され、48年間無罪を主張し続けてきた。世に言う「袴田事件」である。

 今年3月に再審が決定し、袴田が釈放されたことはニュースでも報じられたのでご記憶の方も多いだろう。だが発生から長い月日が経ち、事件自体の記憶は風化しつつある。果たしてどんな事件だったのか、そして真実はどこにあるのか。「冤罪はなぜ起きてしまうのか」を考える上でも、日本最大の冤罪事件と呼ばれる袴田事件を学ぶことは重要だ。そこで今回はプレジデント社より7月に刊行された山本徹美『袴田事件 冤罪・強盗殺人事件の深層』を参考に、事件を振り返ってみよう。

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 1966年6月30日午前2時過ぎ、静岡県清水市横砂にある「こがね味噌」こと合資会社・橋本藤作商店の専務である橋本藤雄の自宅で火災が発生した。焼け跡からは、橋本専務とちゑ子夫人、次女の扶示子、長男の雅一朗の死体が発見される。遺体には何者かに突き刺された跡があり、刃物等で刺されたのち、揮発油を浴びせられ焼かれたものだと判明し、警察は放火殺人として捜査を開始、のちに強盗殺人の疑いも加わる。

 事件発生五日後、血の付いた作業服を着た従業員に任意同行を求め、同年8月18日に逮捕する。この従業員こそが袴田巌だった。だが警察は袴田をクロだとする決定的証拠を、実は全く握っていなかったのだ。そこで警察は厳しい取り調べによって袴田を徹底的に責め、強制的に“自白”を引き出すことになる。袴田が受けた取調べの総時間数は240時間。ろくに睡眠も食事もとれないまま日々が続き、ある時は1日16時間以上もぶっとおしで取調べが行われたこともあったという。取調室という密室がいかに怖いものであるかを、よく物語っている。

 66年11月15日、静岡地方裁判所にて袴田の裁判が始まる。袴田は自白が強制されたものであり、自分は無実であると主張した。しかし事態は一変する。67年8月、「こがね味噌」工場内のタンクから血まみれの衣服が突然発見され、それが袴田のものであるとされたのだ。67年9月、静岡地裁は袴田に死刑判決を言い渡した。

 無理やり言わせた“自白”、タイミングを見計らったかのように現れた“物証”。こんな疑惑だらけの捜査内容は当然、供述調書や証拠を検証すれば穴ばかりが見えてくるものである。例えば……

(1)雨ガッパの謎
 供述調書で袴田は「パジャマのままだと白っぽくて人目につきやすいと思ったので紺色の雨合羽を着て」犯行に及んだと言っている。だが犯行前日には台風が接近し気温が上昇、湿度は80%に達していた。そんな中でパジャマを着た上に雨ガッパを羽織ると、とても蒸し暑くて行動できないだろう。明らかに可笑しな供述を袴田にさせているように思えるが、これには理由がある。現場から発見された雨ガッパのポケットには、犯行に使用された凶器(クリ小刀)の鞘が入っており、警察としては袴田がこれを着ていなければ不都合なのだ。

(2)被害者達の服装の謎
 警察の調書では、凶行があったのは午前1時すぎ、被害者家族が就寝していた時ということになっている。ところが実況見分調書に書かれた遺体の服装を見ると、奇妙なことに気付く。被害者夫婦がともに腕時計をしたまま死んでいるのだ。ふつう、腕時計をしたまま自宅で床に入る人などいるだろうか。しかも長男はワイシャツ姿で胸にシャープペンシルまで差していたのだ。つまり本当の犯行時刻は午前1時半よりも前、家族が起きていた時間ということになるのだが、そうなると袴田の容疑が薄まることになる。袴田は午後10時半まで確固たるアリバイがあるのだ。

(3)発見された衣類の謎
 事件から1年も経過した後に発見された血まみれの服。犯行時の袴田が着ていたものとして警察は断定したが、これが供述調書に大きな矛盾を生み出すきっかけとなる。この服が仮に犯行時に着用されたものだとすると、袴田はパジャマを着ていなかったことになる。そこで供述調書から(1)で述べた「パジャマのままだと白っぽくて人目につきやすいと思ったので」というくだりが削除されるのだが、そうすると今度はカモフラージュのために雨ガッパを着た理由がなくなってしまう。

 ここに紹介した不可思議な点はほんの一部。この他にも調書における膨大な矛盾点を本書は次々と指摘しているわけだが、それらがすべて事実だとしたら、警察の捜査は余りにも杜撰だったことになる。

 1980年に最高裁が上告を棄却し、死刑が確定した後も袴田は無罪を訴え続けた。そして2012年、発見された衣類のDNA再鑑定が実施され、残っていた血痕のDNAが袴田と被害者家族とも一致しないことが証明される。これが決め手となり袴田の再審が決定、袴田はようやく自由の身となった。

 だが、諸手を挙げて喜ぶ気には中々なれない。たとえ無実が証明されたとしても、袴田が囚われの身となった40年以上の月日は二度と戻ってこないのだ。これ以上、上記のような杜撰な捜査によって袴田のような運命を辿る人が出ないことを祈るばかりだ。

文=若林踏