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中世後期の都市の売春婦(下) | 中世史の保管庫(テーマ別を使うと見やすいです)
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中世後期の都市の売春婦(下)

○そこで働く女性たち

(1)女性の館に10人以上もの女性をおくのは稀だった。大きな都市には複数存在し、それらの質や顧客層は様々だった。シュトラスブルクやハンブルクでは、女郎屋横町がいくつか存在した
(2)女性の館で働く女性が売春婦と呼ばれることはめったになく、また娼婦という言葉は中世ではまだ侮蔑的な含みはなかった。よく使われた表現は「共通の女性(or娘)たち」だった
(3)とりたてて敬虔な人は、娼婦を「悪魔の猟犬」と見た。彼らは娼婦に対して「いかがわしい・厚かましい・名誉なき」といった形容詞を付けた。しかし多くは当たり障りない、あるいは肯定的な呼称か用いられた。「貧しく・自由で・素直な・か弱い女」「きれいどころ」「べっぴんさん」「かわいこちゃん」「かわいい女」「娼婦ちゃん」など
(4)売春婦の賃金(ひどく低かった)に関して裁判沙汰になることもあった。中世にも高級娼婦はいたがあくまで例外だった。1人の高級娼婦が悔悛した罪人として女子修道院に入った時に、彼女の持ってきた財産で修道院付属教会を建てることができたという例もあった


○売春婦となる貧しく娘たち

(1)「数多くの貧しい娘たちは修道院か、あるいは遊女屋に入る以外に、どこに居場所を見いだせるのか」(15世紀末のドミニコ会修道士の言葉)
(2)中世の人々も「不道徳ではなく貧困が原因で売春が存在する」ことは知っていた。それゆえ教皇インノケンティウス3世は「罪ある生活から娼婦を救い出すために、結婚させることがやりがいのある仕事である」と言明した(1198年)。中世後期には、神の愛から「哀れな罪人と結婚しよう」という「敬虔なる若者たちのための」財団が設立された
(3)しかしこうした財団は全て、マグダレーナ教団(少女保護に従事した)や悔悛女子修道院(贖罪を済ませた貧しい売春婦の受け入れ所として、1227年以降にドイツの至る所で建立された)の後継になることができなかったという
(4)都市で決められた数多くの衣服条例が「『共通の女性』とその他の『名誉なき女たち』に絹・金・銀あるいはその他の高価な衣服を身につけること」を差し止め、娼婦に繰り返し飾りや高価なアクセサリーを禁じていた。衣服とか飾りは、しばしば女性の館管理人に借金して購入した
(※つまり、貧しさだけが理由ではなく、おしゃれをしたいという動機も働いていたということか?)
(5)女性の館に係わる当局の条例は、一般に「共通の娘たち」が管理人に対して「物質的に従属させられる」度合いをできるだけ軽くしてやろうと努めている。「管理人が女性たちにどのように食べさせなければならない」「どれほどの程度、女性たちが管理人に支払うべきか(しばしばそれは賃金の1/3とされた)」が定められた
(6)管理人はかなりの財産を持っていたが、女性たちは何もないか持っていても僅かだった。条例は「売春婦が管理人に債務を負っている」ことを前提として定められている。コンスタンツ(1523年)では「債務のある女性に何も強制しないように(その体を、彼女たち自身のまったくの自由にさせるように)」管理人に約束させている
(7)借金のために抜け出せない彼女たちを助けるための財団が作られた


○売られる女性

(1)イタリアの海港都市では、アラブ世界との交易の「商品」だった奴隷女が、しばしば売春婦とみなされていた
(2)「いかなる管理人も、以前に共通の館にいなかった女性を買ったり、借金のかたに取ったり、貸し出したりしてはならない」(ニュルンベルクの条例)。しかし同様の規定がウルムやコンスタンツにもあり、条例とは逆にドイツでは女性の売買は異常なことではなかった
(3)シュパイエル(1486年)では、風呂屋の下男がその女友達を数日間「女性の館に貸し出し」て、現金を請求したケースがあった。他国からやって来た女性が連れてこられて働かされる事例も後を絶たなかったようだ
(4)ブラウンシュヴァイク(1423年)では「『赤き修道院』で11歳の1女性が殺された」。 少女ではなく女性と呼ばれていることから、彼女は明らかに年少の小間使いではなく売春婦であり、しかも守ってくれる保護者のいない人物だった。実際、この殺人を訴え出る者はおらず、市参事会がこの任務を引き受けるしかなかった


○都市生活に組み込まれていた売春婦

(1)都市当局はどこでも、女性の館に市民の娘が受け入れられないように配慮した
(2)そこで働く女性はよそから来ていたのだが、しかし彼女たちは市内で名が知られていた。例えばライプチヒでは「チビのエンヒェン」、たっぷりと白粉を使う「厚塗りアンナ」「ふとっちょヘデヴィヒ」といった女性をみんなが知っていた
(3)教会の中で彼女たちが定まった席(もちろんベンチでも椅子でもない)をもち、そこで誰もが彼女たちを見ることができたからといって「どんな実害も及ぼさなかった」。コンスタンツでは、女性の館管理人は「日祝日には『きれいな女性たち』を教会に行かせて、いつもの場所な座らせる」ように義務づけられていた
(4)彼女たちが、恥ずかしがって皆から離れてミサに出席するということはありそうになかった。つまり彼女たちは「名誉喪失者の烙印を押されてはおらず」「賎民のように扱われたわけでもない」
(5)むしろ、売春婦は都市文化の一部であった。諸侯がやって来た時・市参事会のお参り的なパーティーといった公の機会に、売春婦は華を添える存在として出席していた
(6)ウィーンのヨハネ祭では、花冠をつけて登場する売春婦が市の公金でもてなされていた。チューリヒでは「市長・裁判官・共通の女たち、が使節とともに食事するのが慣習だった」が、誰もそのことで体面に傷がつくなど、考えもしなかった


○人々と罪との「気楽な」付き合い

(1)中世後期でも性とは気楽に付き合えなかったが、罪に関してはそうではなく「罪を犯すことは人間の常」と理解されていた
(2)コンスタンツでは、ある夜警が「いつも女性の館を訪れて巡回を中断した」ゆえに罰せられたが、それは夜警義務をなおざりにしたためであり、彼の道徳性を非難したわけではなかった
(3)誰もが「悔悛している罪人」として、非難された生活から常に回心可能だったことを思い起こさせる聖マリア・マグダレーナの伝説を知っていた。この聖女の伝説(新約聖書の3人の女性像から作り出された)によれば、彼女はその回心の際、背景に30年間の不毛な生活を持っていた。この聖女の人気は絶大で、中世後期の復活祭劇のお気に入りの主人公だった
(4)中世都市において、当局は女性の館とそこで働く女性を社会から隔離しようとした。衣服条例によって売春婦に金のかかる衣服と飾りを禁止したり、衣服に黄色い目印(ユダヤ人と同じ)を付けさせた
(5)しかしこうした条例は最初だけ人目を引いたに過ぎず、単なる都市当局の「(キチンと規制してますよ、的ニュアンスの)言い訳」程度しか意味を持たなかったようだ。でなければ、公の場に売春婦を出席させたりはしない


○女性の館文化の衰退

(1)16世紀の中頃に、ほとんどドイツ中で女性の館は閉鎖されてしまった
(2)しかしこれは梅毒の結果とは言い難い(時期としては、梅毒が2世代にわたって猛威を振るった後だから)
(3)むしろ宗教改革を契機に、社会的に道徳性の厳格化が進んだ影響だった。社会の諸集団の輪郭がハッキリと際立つようになり、賎民は強力に排除されることになった
(4)逆にそれまでは、社会的な・身分的な差異が、まだそれほど人々の関係を分け隔てしてはいなかった。ブレスラウにやって来た遍歴学生トマス・プラッターは、フッガー家の者に話しかけられその家に連れて行ってもらえた。反対にニュルンベルクの都市貴族の息子でも、外国では下男以上には取り扱われなかった


『ドイツ中世の日常生活』メグゼーパー、シュラウト(刀水書房)〔9〕