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直言(2019年7月22日)34年間隠蔽されている「日航123便<b style="color:black;background-color:#a0ffff">事件</b>」、法廷へ――早大法学部シンポジウム

34年間隠蔽されている「日航123便事件」、法廷へ――早大法学部シンポジウム
2019年7月22日

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25回参議院選挙の大勢が判明した。直言「二人に一人しか投票しない「民主主義国家」」の状況が続いている。ドイツでは、投票率が60%台になると「民主主義の危機」が言われるようになるから、投票率が50%を切る日本は、まともな民主主義ではもはやないということになるのか。これについては来週以降の「直言」で詳しく書くことにしよう。

さて、前回の「直言」で紹介した7月16日のシンポジウム「情報公開と知る権利――今こそ日航123便の公文書を問う」(早大法学部・比較法研究所共催)は、好評のうちに終了した。参加者、関係者の皆さまに感謝したい。

私は、この問題にこだわる元客室乗務員の青山透子さんに23年前から協力してきた。その経緯は9年前の直言「日航123便墜落事件から25年」で初めて明かした。青山さんは長年にわたる地道な調査の結果、冒頭の4冊の本を出版され、累計で15万冊を超えるベストセラーになっている。最新刊は、先週16日に発刊された『日航123便 墜落の波紋、法廷へ』(河出書房新社、2019年)である。昨年の直言「「遺物」から迫る日航123便事件隠蔽、捏造、改ざんの連鎖」から1年のうちに、事態は進んだ。123便関連の国内外の遺族が動きだしたのである。遺族は、国土交通省の外局、運輸安全委員会が保有する文書の開示請求を求める訴えを起こした。今回のシンポジウムは、日航123便事件を法的な観点から検討するというもので、早稲田大学法学部と比較法研究所の共催となった。教授会で正式に承認されたもので、ネット上で「陰謀説」と片づけることを許さない学術的な企画である。総合司会は、企画世話人の私が担当した。

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基調講演は、第二東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長などを歴任し、総務省情報公開法の制度運営に関する検討会委員や内閣府公文書管理委員会委員などを務めた三宅弘弁護士にお願いした。

三宅氏の講演は「情報公開と知る権利―モリカケ、PKO日報から日航123便の記録まで見通して」(資料PDF)と題して、日本の公文書管理と情報公開の概説的な説明から入って、日航123便のボイスレコーダー、フライトレコーダーその他の調査資料一切(マイクロフィルムを含む)の情報公開請求について説明していく。国側はボイスレコーダー等の不存在をいってきた。だが、調査当時存在したものが、その後誰が、いつ、廃棄したのか。廃棄簿はあるのか。また、調査資料の不開示理由についても、およそ理由になっていないことを逐一明らかにしていった。さらに、日航の保存記録についての公開、群馬県警にある不起訴記録の公開についても言及。今後、これらのものを公開させていく法的道筋を述べた。内閣府の公文書管理委員会委員も務めた経験から、その言葉には重みがある。公文書管理法1条には、公文書は、「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」とある。公文書を隠蔽し、破棄し、改ざんしてしまうこの国は、「健全な民主主義」の国といえるのかということを痛感させられる講演だった。

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もう一人の講演者は、評論家の森永卓郎氏である。「日本経済から見る1985年」と題して、日本経済の分岐点が1985年9月22日のプラザ合意(先進5か国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議が一方的に円高を要求して、日本がのんだ合意)であり、ここから日本経済の衰退が始まる。その背後に日航123便事件があるという仮説である。森永氏は著書『なぜ日本だけが成長できないのか』(角川新書、2018年)のエピローグ(「対米全面服従の始まり」)でそのことを詳しく述べている。なお、この点に関する森永氏のラジオでの発言についてはこちらを参照されたい

当日、別の大学で講演があって登壇できなかった英国カーディフ大学のクリストファー・P・フッド教授がビデオメッセージを寄せてくれた。私は、8年前、洋書カタログにあったChristopher P. Hood,Dealing with Disaster in Japan:Responses to the Flight JL123 Crash, 2011を、発刊後すぐに購入していた。「積ん読」状態にあった本書を2015年頃、偶然開いて、そこに青山さんの本や私のホームページ「直言」が引用されていることを見つけて驚き、すぐに青山さんに本書をお貸ししたところ、彼女はすぐにフッド教授とコンタクトをとった。そして昨年英国に行って、フッド教授のゼミで123便事件について講演しているのである(詳しくは、最新刊『日航123便 墜落の波紋、法廷へ』28-48頁参照)。フッド教授は、このシンポジウムに寄せたビデオメッセージでこう述べている。

「私は英国で日航123便についての2冊の本を書いています。この問題を知らない学生に伝えると、最初はなぜこんな古い事件に?という対応だったが、青山さんの本をはじめいろいろな本を読み、検証すると、学生は大変興味を持つようになります。そして自ら御巣鷹の尾根に登山した英国人学生もいます。伝えていくことは大変重要であり、教育者として必須です。青山さんはカーディフ大学へ講演に来てくれました。そこで初めて遺族のスゥザンさんと出会った。とても有意義でした。学生の満足度も高かった。皆さんぜひ再調査を目指して一緒に頑張りましょう。」と。


《青山透子さんの報告》

さて、このシンポの目玉でもある青山さんの「日航123便墜落の解説」について書いておこう。パワポを使った実にリアルな報告で、ここでは「直言」のスペースの関係上、3つのパワポ資料を軸に紹介する。その他の「なぜ」について、例えば墜落現場の特定が遅れたこと、救助が12時間も遅れたことなどについては、直言「「日航123便墜落事件」から30年」を参照のこと。

青山さんは、当時事故機に乗務していた客室乗務員との思い出の写真を見せながら、自分が殉職したかもしれないという気持ちから調査を始めたと語り始めた。1985年の時点で防衛庁長官だった加藤紘一氏や運輸大臣だった山下徳夫氏へのインタビューの際の写真を示しながら、また、墜落現場上野村の黒澤丈夫村長の協力で得られた事実や情報を示しながら、地道な事実解明を行ってきたことを明らかにしていく。さらに、群馬県警察医で当時検死担当責任者だった大國勉氏(シンポジウム会場の前列に着席)や、生存者を救出した上野村消防団の方々へのインタビュー写真など映写しながら、青山さんの主張が、ネット上で飛び交う「陰謀説」などというものと無縁な、様々な資料や情報を周到に収集・検討した上での問題提起であることを明確に示していく。

そして、青山さんは、123便の関係者は不起訴となって34年もの間、520人の死に対して誰も責任を問われないまま今日に至っていること、相模湾に沈んだ垂直尾翼、APU(補助動力装置)も放置されていることを指摘して、事故調査委員会は再調査を放棄していると厳しく批判する。

報告のなかで示された、検死した医師たちの証言についてのパワポ画面がこれである。医師たちの足元には細切れとなった炭のようなものが遺体の一部である。

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「筋肉や骨の完全炭化が著明であった」(群馬県医師会活動記録)。青山さんが取材した群馬県警察医の大國勉氏と法医学者(日大名誉教授)の押田茂實氏(ともにシンポジウム当日、関係者席に着席)は、緑多く、木々が茂る山中に放り出された生身の肉体が、歯を含む骨まで炭化するほど焼けるものかのかという疑問を提起していた。ジェット燃料のケロシンは灯油とほぼ同じ成分で、揮発性が低く、人を炭化させるほどの燃焼力はない。当日、早い時間に現場に入った上野村消防団の人々への取材から、「ガソリンとタールの臭いが充満していた」という証言を引き出している。つまり、灯油の臭いではなかった、ということである。

スライド2

この写真の真ん中の黒焦げの遺体をご覧いただきたい。裏も表も全くわからないほど全身がくまなく焼けている。「二度焼き」の事例科学的調査結果に基づく仮説と検証スライドがこれである。詳しくは、昨年発刊された青山著『日航123便墜落 遺物は真相を語る』を参照いただきたい。大学の金属材料研究所において遺物から検出された「ベンゼン、硫黄、クロロフォルム」は何を物語るのか。いずれも積荷やジェット燃料(灯油の一種のケロシン)には含まれず、自衛隊使用の武器燃料(火炎放射器)に含まれる物質である。特に「ベンゼン環」はガソリンに含まれる。遺物面積に対する割合では、大量のガソリンがかけられていることがわかる。夏の山は木々の繁った湿度の高い環境で、10時間以上も炎を出してケロシンが燃え続けるというのは説明がつかない。山火事を経験した上野村消防団の人たちも、乾燥している冬山ならまだしも、夏でここまで真っ黒に燃えることに疑問をもっていたという。

スライド3

右上の木が、樹齢200年の赤松(通称一本から松)である。ここにジャンボジェット機の第四エンジンがひっかかり、エンジンが木っ端微塵となって傾き、墜落したということが事故調査委員会報告書に書いてある。この細い木一本で、普通乗用車約6台分の重さ(7トン)ものエンジンが細かく砕け散るだろうか。報告書の記述はあまりに不自然であり、力学的にも道理に合わない。木が折れていることからも、力学的には木が負けている。ほかのエンジンは墜落場所からほぼ原型で発見されているにもかかわらず、その手前で第4エンジンのみが、細部にわたってバラバラに広がっている理由が不明確である。外部からの破壊的な力が第4エンジンに働かなければ、第4エンジンだけが木っ端みじんになるということは考えられない。事故調査報告書の記述には重大な疑問がある。

青山さんの報告は短時間ながら、パワポを効果的に使った、実にインパクトのあるもので、会場は静まり返っていた。スペースの関係上、青山さんの報告の紹介はここまでとする。

なお、私は、シンポジウム終了後の懇親会で、ファントムを目撃した藤枝市の女性と話す機会があった。彼女は航空自衛隊静浜基地(旧志太郡大井川町)が近くにあるので、子どものころから航空祭にも行っていた。F4ファントムのパネルに「音速飛行」とあったのを覚えていて、あの日飛んでいたのがファントムであることは、見間違うはずはないと私にはっきり語った。事故調査報告書でも、この34年間の政府の説明でも、18時35分に藤枝市で目撃され、18時45分頃に上野村の子どもたちに目撃されたファントム2機は、「存在しなかった」ことにされている。この「謎のファントム」と、木にひっかかって「壊れた」とされる第4エンジン。この2つをつなぐものは何か。青山さんの報告で提示される事柄の一つひとつが、会場に重い空気を生み出していった。

今回のシンポジウムで画期的と私が考えるのは、123便関係の遺族の方々が声をあげ始めたことである。とりわけ、このシンポの場で、日本と英国の遺族が初めて顔を合わせたことである。


《シンポジウムの概要》

英国人遺族のスゥザン・ベイリイ・湯川さんと吉備素子さんが登壇した。司会は青山さんである。彼女たちの臨場感溢れる話には、参加者は真剣なまなざしで聞き入っていた。当事者しかわからない、さまざまな疑問や今後再調査への決意を述べられた。シンポジウムにおける遺族の話をまとめると以下の通りである。

■吉備素子(大阪の遺族):ご主人をなくされている。青山さんの本を読み、出版社に連絡して今日に至る。吉備さんはどのメディアに話をしても、自分が最も言いたいことを書いてくれないと感じてきた。青山さんの著作には当事者意識があり、彼女ならばこの気持ちを理解してくれると思って会いに行った。メディアが誰も書いてくれないことを書いてほしいという願いを受けてくれた、と。主人の遺体はバラバラで全くわからなかった。

■青山透子:遺体の3分の一は完全遺体で、それ以外は2000以上ものパーツに切断、バラバラになっていた。吉備さんのご主人の座席はちょうどそこで機体が裂けたために、バラバラ遺体となって、発見が困難だった。なお、『墜落の新事実――目撃証言から真相に迫る』に吉備さんへのインタビューが掲載されている。

■吉備:主人の遺体を探して、8月13日から12月20日の遺体安置所閉鎖まで通い続けた。ここまでした唯一の遺族。すべての部分遺体をこの手で触り、「見つけてあげられなくてごめんなさい」と祈りながら最後のお別れをした。警察が黒焦げの部分遺体や、自分がとっておいてほしいといった大腿骨部分もさっさと荼毘にふしてしまった。これに怒った。こんな遺体保存がいい加減ではいけないと思った。
・日航社長(当時高木養根)と中曽根首相に直談判に行った。日航の社長は震えていた。連れていかれたのは首相官邸ではなく運輸省だった。遺体を確認せずに荼毘にふす現状について訴えたところ、それは即日改善された。
・群馬県警本部長は、「戦争になるからこれ以上言うな」といった。なぜ事故原因の話をすると戦争になるのか、疑問に思った。そのほかにもおかしいことはいっぱいある。

■スゥザン・ベイリイ・湯川:当時長女が4歳、次女を身ごもっていて、墜落後に出産し、そのまま英国に戻って二人の子供を一人で育てあげた。このシンポジウムのために来日した。胸にロケットペンダントをしている理由を問われ、そのペンダントの中にご主人だった湯川昭久氏の遺髪となってしまった髪の毛が入っていると説明した。「墜落で死亡する2日前(1985年8月10日)、夫は突然髪を切ってくれといった。とても珍しいことだった。私は彼の髪を切り、なぜかわからないけどその髪の毛を捨てずにとっておいた。それがこの髪の毛である。」「英国では全く事故原因への疑問すら情報は得られず、青山さんと知り合う前は知らなかった。その後のことも、報道も全くなされていない。事故調査報告書で不起訴とも知らなかった。国の報告書はすべて正しいと信じ込まされていた。本当に事実を知ってびっくりした。」

■青山:私は今回の英国での取材で、スゥザンさんと英国で会い、英国の元事故調査委員や弁護士、政治コンサルタントなど多くの人に会って話を聞いたが、特に政治的圧力を受けやすい航空機事故原因についての説明を受けた。事故調査はドライでなければならない、政治的干渉を受けてはならない、ということだった。現実はそうではない場面が多い。日航123便に関する事故調査報告書がいい加減である理由の一つとして、最初に不都合が発生した垂直尾翼への損傷に関する調査をしていない点が挙げられる。さまざまな言い訳で書かれた報告書であった。2015年に相模湾に沈んだままの垂直尾翼が発見された。テレビ朝日のニュースでその映像が流れた。事故原因解明に役立つのに、そのまま放置されている。

■スゥザン:私は相模湾から最も重要な垂直尾翼の大半を引き上げていないことに驚いた。全く知らなかった。タイタニックの映画監督ジェームス・キャメロンならば、あの映画のように本物を引き上げてみるだろう。引き上げて検証すべきだ。私はそうなることを望んでいる。強く願う。当たり前のことをきちんとして皆さんに知らせていくことが遺族としての使命である。私も日本の遺族に加わって、一緒に進めていきたい。

■青山:既存の遺族団体として「8.12連絡会」があるが、この会の会長はなぜかわからないが、2011年の解説本を出したとき以降、事故原因追及を放棄している。だから、2015年に垂直尾翼やAPU(補助動力装置)がいまだに沈んだままの映像が流れても、再調査のために動こうとしなかった。遺族として当然の引き上げも要請していない。マスコミには精霊流しなどの行事に顔をだすだけである。他の遺族も同様と思われる。しかし、いまだに納得していない遺族の存在がある。

■吉備:私はいまだに納得していない。主人の戒名が妙響院釋了信(みょうこういんしゃくりょうしん)。お坊さんに聞いたら、言いたいことがある、世界中に響かせよ、という意味だから、私はこの事故原因が解明されない限り、あの世にいけない。夫に追い返される。だから頑張っているのです。絶対にこの夫の遺言に沿うように頑張りたい。


このシンポの最大の意味は、日航123便の関係者(元客室乗務員、国内外の遺族)と法律専門家が一つの場に集まって、政府が「終わったこと」にしていることについて再調査を求めたことである。そして、具体的な手段として、訴訟という方向に歩みだす着実な一歩となったことである。私は、日本の戦後史における最大の隠蔽と改ざんは、「1985年8月12日の日航123便事件」であると考えている。その「不都合な真実」の点と点がつながり面となり、さらに立体的なものになって、ようやく、その姿をあらわし始めている。「日航123便事件」の全容と全貌が明らかになったとき、「この国のかたち」を変えるだけの威力をもつだろう。国の最大の名誉(大勲位)がその評価を180度逆転させる可能性もある。

最後に、この問題についての私の原点について語っておく。20年近く前、当時レギュラーをしていたNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」の2000年8月13日の回で述べた「日航機事故から15年」が私の原点である。「調査委員会側は「再調査の必要はない。調査は公式に終了している」とコメントしていますが、・・・やはり再調査の必要があるのではないでしょうか。新聞もこの問題をもう一度詳しく取材することが必要でしょう」。青山さんやご遺族の皆さんと同じ思いを、私は15年前にラジオで語っていた。「あったことをなかったことにする」手法は34年前からずっと使われていた。これからは英国などの海外メディアも関心をもってくると思うので、日本のメディアの皆さんもしっかり取材していただきたいと思う。

なお、青山透子さんのブログに、7月16日のシンポジウムとその周辺事情について詳しく書いてあるので、参照されたい。また、このシンポジウムのことは、群馬県の『上毛新聞』7月17日付に掲載されている。

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