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「地下鉄サリン事件」
あの朝、地下鉄でサリンを写した

忘れられない「地下鉄サリン事件」


「床にひろがる凶器」…1995年3月20日午前8時40分、東京都千代田区営団地下鉄霞ヶ関駅で

 「警視庁鑑識課のSです。本日写真をいただきました。ありがとうございます。しかし、良く撮れていますね。あなたは、こんなに近くで写して、身体は本当に大丈夫ですか。私は、昨日やっと医者から完治の診断書をもらいました。同僚の言うには倒れた当初、本当に死にそうだったそうです。危ないところでした。何はともあれ、助かって良かったです。この写真が、在りし日の姿なんて言われずに済みました。家宝にします。ありがとうございました」。
  平成7年5月29日。警視庁刑事部鑑識課S警部(当時)からお礼の電話。4月から職場に復帰しているという。大事に至らなくてよかった。この人が写真の鑑識課員である。彼のおかげで、撒かれた薬品が生命に危険を及ぼすことを認識し、助かった人も多いことだろう。あの朝、いち早く現場に駆けつけ、現場検証中に倒れた彼は、瀕死の重症に見えた。痙攣というよりは硬直という感じ。「気の毒だけど、もう助からないかもしれない」と私も思った。同時に、自分も近くにいたのだから、あとでこうなるかもしれないとの恐怖を感じ、身体が震え出して止まらなかったのを思い出した。

 平成7年3月20日、午前7時頃、いつものように自宅を出た。このあと、歴史に残る凶悪事件に遭遇することなど知る由もない。
 翌日は「春分の日」。「今日休めば、連休になるのになあ」。休みをとれた人が羨ましい。案の定、連休の谷間とあって休みをとった人が多かったのだろう。それほどの混雑はない。地下鉄丸の内線の赤坂見附駅で最後尾の車両に乗り込み、霞ケ関駅で降りた。8時半をまわった頃だったと思う。丸の内線のホームでは、「日比谷線はただいま、発車を見合わせております」。との構内放送が流れていた。
 丸ノ内線から降りた乗客の半数が日比谷線への階段を下りて行く。学生時代に駅員のアルバイトをした経験から「発車見合わせ」ぐらいではすぐに復旧すると思って、私もそのまま階段を下りた。
 階段を下りると日比谷線の北千住寄りの先端に出る。自分の乗ろうとしている中目黒方面に向かう3番線に電車はいない。島式ホーム反対側の4番線に「東武動物公園行」の電車が止まっている。ステンレス地にエンジ色の帯の入った東武鉄道から乗り入れている車両だ。車内の照明は点いているが、乗客の姿はなくドアは閉じられている。
 怒鳴り声のようにやかましい列車無線の声が漏れて聞こえてくる先頭の乗務員室の扉を通じて、駅員数人が車内とホームを行き来しながら話し合っている。これを取り囲むように乗客の輪が出来た。「運転再開までどのくらいかかりますか」という若い女性の質問に、年配の職員が「車内に薬品を撒かれまして、運転再開するかどうかは見当もつきません」と答えた。私も質問する。「薬品を撒かれたくらいで、なぜ?」。の問いに、「かなり強力な薬品らしい。私も目が見えなくなってきた」。何かとてつもない事が起きているような気がした。「どの辺ですか」と聞くと、「すぐ、そこですよ」と先頭車両の後部を指した。至近距離だ。
 薬品を撒かれた場所は、先頭車両の前から三つ目のホームと反対側の扉(日比谷線の車両は一部を除いて1両に三つ扉、この車両も三つ扉だった)右脇の座席の下。

  きれいに折り畳まれ、端をガムテープ様のもので止めた新聞包みが見える。縦横20センチ程度の大きさで、厚さは3、4センチほど。無色透明の液体が、新聞紙から滲み出すように2メートル四方の床を覆っていた。液体は、厚く、先端が丸まっている。粘り気がありそうだ。
 いくら強力な薬品だとしても、そばにいただけで目が見えなくなるだろうか。そして、日比谷線が全線にわたって不通になるだろうか。電車の発着や構内放送もない静けさが、事件を一層不気味なものに感じさせた。
  不気味なこと言えば、5日前の3月15日、この駅で何者かに放置されたアタッシュケースから蒸気が噴き出した事件があった。「同一犯か?」。
  何しろ、日比谷線を全線不通にさせるだけの大事件である。以前、新聞記者を志したこともあってか、事件に遭遇すると写真を撮りたくなる。それなのに、カメラをもっていなかったことを悔やんだ。が、咄嗟にひらめいた。「売店なら『写るんです』を売っているはず」。確信はなかったが、ホームの中ほどにある売店へと、とにかく走った。売店はまだ営業中。写るんですも売っていた。売店前のベンチには、雑誌を読みながら運転の回復を待つ人が数人座っている。そのくらい現場に緊張感はなかった。「『写るんです』下さい」店頭にぶら下がった使い切りカメラをつかみ取る。先程の先頭車両のところへ走りながら、硬い袋を破ってカメラを取り出す。「何でこんなに開け難いんだ」。
 ガラス越しにシャッターを切った。現場には警察官が数人、到着したところだった。制服から察するに機動隊員らしい。その内の若い警察官が私に近づいてきて何か言おうとしたとき、彼の上司らしい警察官が、他の場所への転進を意味する警察用語で「おい、マルテンだ」と告げる。「ハイッ、マルテン」と復唱し、その警察官は立ち去った。
  数分後、今度は「鑑識」の腕章を巻いた警察官が到着。その内の一人が車内に入って写真を撮り始めた。「公捜」の腕章を巻いた私服の捜査員数人も現場を調べ始めた。彼らは公安部の捜査員。相当な重大事件らしい。車内にいた鑑識の捜査員がシルバーシートのところの窓を開けた。私服捜査員の1人が、その開いた窓からのぞき込みながら手のひらであおぐしぐさをして、臭いを嗅いだ。今では考えられないほど危険なことだが、その時は、彼らでさえも撒かれた薬品が「サリン」と思っていなかったことが分かる重要なシーンである。そのあとを次いで私もその窓から、さらに2枚撮った。意識的に呼吸を止めていたので特に強い臭いは感じなかったが、ほのかに石油ストーブの火を消した時のような臭いがした。
 捜査員が検証を行っているホームの様子も数枚撮った。この間、5分くらいか。警察官から追い立てられる前に、自発的に改札口に通じるエスカレーターを駆け上がった。この時、真横の階段を下りていく女性客とすれ違った。この時点で日比谷線のホームは、まだ立入禁止になっていなかった。
 「桜田通り方面出口」の改札口を出た。会社と新聞社に電話で連絡しようと思ったが、改札口の真ん前にある公衆電話は長蛇の列。仕方なく私もその列に並んだ。その間に、公衆電話のところに置いてあった職業別電話帳で新聞社の電話番号を調べる。慌てていたのでなかなか見つからない。順番が回ってきてしまったので、会社にだけ遅れる旨の電話を入れ、もう一度後ろに並び直す。2回目の順番で新聞社に電話をかける。交換台が出た。「社会部デスクをお願いします」。
  社会部にはすぐにつながった。電話に出た記者に事件の速報と写真の提供を申し出る。「読者ですが、今、日比谷線の霞ケ関駅で、列車妨害事件が発生しています。その写真を撮ったので提供します」、「どんな事件ですか」、「電車内に強力な薬品を撒かれたのです」、「爆発ではないのですね(後で分かったことだが、この時点では築地駅で爆発と報じられていたらしい)。それで、どんな写真ですか」、「床に撒かれた薬品とそれを包んでいた新聞包み、それらを検証する捜査員の写真です」、「ありがとうございます。是非、いただきたいのですが、あなたは通勤途中でしょうから、会社に記者を向かわせます」。電話口の向こうで怒鳴り声が飛び交う。「オーイ、読者の写真提供だ」「誰が行ける?」「すぐ行け!」などと緊迫した様子だ。そんなやり取りの中、駅の改札の中では、車内に入っていた先程の捜査員が担架に載せられてくるのが見えた。「いま、薬品を撒かれた車内に入っていた捜査員が、倒れたようで担架で運ばれていきます」。二次災害の発生を電話で告げると、「すみませんが、その写真も撮っておいて下さい」。と今度は要請された。
  慌てて電話を切り、同僚らに運ばれていく捜査員を追う。電話の内容が聞こえたのか、周りで電話の順番を待っていた人たちが道を開けてくれた。改札口の中ではテレビのカメラマンが日比谷線の階段を下りようとしたが、「立入禁止!」と警察官に制止された。「A2」(人事院ビル前)の出口を出た。倒れた捜査員は桜田通り沿いの歩道に寝かされていた。泡を吹いている口にタオルをあてがわれ、痙攣しているというよりは硬直しているといった感じ。「もう助からないかもしれない」と私には思えた。同時に、自分も近くにいたのだから、間もなくこうなるかもしれないという恐怖が襲ってきて、身体が震えだした。
 気を落ち着けて、寝かされている捜査員の写真などを少し距離を置いて数枚撮った。倒れている捜査員の上から覗き込むように写真を撮っているプロカメラマンもいたが、私は瀕死の人を前にして、近づいて写真を撮ることなどできなかった。離れてカメラを向けた。
 桜田通りには、消防の指揮車が既に到着。しかし、救急車はまだだ。倒れた捜査員の同僚が消防士と話している。「今、ここと同じような負傷者が多数発生して、東京中の救急車が○○(聞き取れなかった)に向かってしまっているから、救急車はしばらく来ないかもしれない」「じゃあ、パトカーで運んだほうがいいかな」との会話が聞こえた。他の場所でも同様の事件が発生し、この事件が「同時多発」だということが、初めてわかった。
 「救急車がくるまで、ここに寝かせておくのはみっともないから、見えないところに運ぼう」。とパトカーに乗っていた警察官の一人が言い、倒れた鑑識課員は警察庁の入っている人事院ビルの中庭に運ばれていった。瀕死の人を前に「みっともない」とは何だと不愉快に思ったが、間もなく救急車が到着、捜査員を救急車に収容したので少し安心した。
 A2の出口からは、行き場を失った通勤客が地下から上がってくる。その中に私と同じ会社の先輩を見つけた。声をかけると、今、地下の駅構内では「緊急放送、駅構内にいる人は直ちに駅の外に避難してください」という放送がひっきりなしに流れているという。彼は時限爆弾でも仕掛けられ、処理できなくなって爆発するのかと思い、慌てて地上に出てきたとのこと。
 そんな彼に「同時多発ゲリラ事件で、日比谷線の車内に薬品をまかれて…。いま、鑑識の人が、二次災害で倒れ、運ばれたところなんです。だから駅構内が立入禁止になったのでしょう」と説明した。
 会社までタクシーで行くことにした。しかし、タクシー乗り場も長蛇の列。流しのタクシーを拾うことにして手分けして探す。法務省脇の小道から運よく空車がきた。それに乗り込む。9時ちょうどだった。
 桜田通りは、大渋滞だ。比較的すいている対向車線を警察、消防、救急といった緊急車両がサイレンをけたたましく鳴らして行き交う。普段は5分で会社に着くのに、神谷町駅の手前までで、25分以上経過している。
 神谷町駅前まで来て驚いた。駅前の歩道上に数十人の人が倒れている。まだ手当を受けているといった様子はない。どうやらここでも同じような事件があったらしい。倒れている人の数からすれば、こちらの方が状況は深刻だ。神谷町をすぎると車はスムーズに流れ、会社に到着したのが9時30分。タクシーに乗って既に30分が経過していた。
 会社に着くと、受付の係に「新聞社の方が見えると思いますから、呼んでください」と言うと、「もう、お見えになっています」。来客用のテーブルから私に挨拶をする男性は、係から出されたコーヒーを既に飲み終えていた。
 あれほど道が込んでいたのに、あまりに早い到着だったので、ここまできた経路を尋ねると「多額の不良債権を抱え経営危機に陥った安全信用組合が、今日から東京共同銀行として再スタートするが、その本店前で取材中だった」とのこと。その本店は神谷町の駅前にあったから、なるほど早いわけだ。地下鉄サリン事件さえなければ、この日のトップニュースはこれだったに違いない。
 「報道関係の人は現場にいなかったので、『現場写真』は、これだけだと思います」。記者に使い切りカメラごと渡した。現場の状況を説明したが、うまく説明できない部分もある。「詳しくは、私の写した写真を見てください」。彼は渡したカメラを大事そうに鞄にしまい、急いで帰っていった。
 取材を終えて、自分のデスクのある部屋に入ると、テレビのニュース速報を見た同僚たちが大騒ぎしている。刻々と明らかになっていく被害状況。「地下鉄の何箇所もの駅で薬品が撒かれ、既に5人死亡」と流れている。私の通勤ルートが被害のあった路線を通ることを知った同僚達は、「お前、大丈夫か」と寄ってきたが、この時点で私はまだ自覚症状に気づいていなかった。
 しばらくすると、テレビでは、「警視庁が、地下鉄に撒かれた薬品は『サリン』と断定」と言い出した。「サリン」という言葉を聞いて身が震えた。?涙、鼻水が止まらなくなる、?縮瞳、?痙攣、?呼吸困難…、松本サリン事件の時に新聞で読んだ、サリン中毒の症状を思い出し、自分の症状に気が付いたからだ。
 そういえば、さっきから鼻水が止まらない。花粉症が突然おこったとは考え難いし、デスクにあるパソコンの画面が暗い。外の景色も夕暮れ時のようにオレンジ色だ。多少の息苦しさもある。間違いなく「サリン」にやられている。
  会社の入っているビルの5階にある診療所に行った。受付の女性に「今朝の地下鉄の件で」と受診の申込をした。この時点で救急の扱いはない。11時20分ころのことだった。医師に、「今朝の地下鉄の件で鼻水が止まらない。それに、視界が暗い。テレビでは『サリン』と言っているが大丈夫だろうか」と伝えた。医師は慌てた。彼は、まだそのことを知らなかったらしい。NHKのテレビで確認した彼は、「紹介状を書くので、すぐに虎ノ門病院に行きなさい」と言った。そして看護婦には、「今まで地下鉄の件で来た人をすぐに呼び戻しなさい」と指示していた。
 紹介状を受け取り、タクシーで虎ノ門病院へ。運転手は、事情を聞くと、混んでいる道を避け、猛スピードで病院の玄関につけてくれた。正午のことだった。
 受付を済ませる。普段、とても時間がかかるこの病院の受付も、スピーディにやってくれた。指示に従い、地下1階の救急外来の診察室に行った。診察室の前では、腕に点滴の管をつなげた人が、廊下まであふれている。今まで見たことのない光景だ。野戦病院のような…という形容はこんな時に使うのかと思った。緑色の営団地下鉄の制服を着た人も何人かいる。医師の診察を受けると、やはり縮瞳の症状が出ているとのこと。
 すぐに点滴の準備が始まる。点滴の針を静脈へ刺し込んで、点滴では時間がかかりすぎるからと、その管に注射器をつないで解毒剤を一気に注入する。そして点滴の袋をつないだ。血液成分の検査をするので、別の動脈から血液を採る。右手首内側の深いところ。これが、相当痛い。診察するスペースもあまり無いような状況だから、腕を載せる場所がない。空中に腕を持ち上げたまま。腕がぐらつくので痛さに拍車をかける。
 点滴は、毒の成分を薄めるのと経過を観察する時間を稼ぐため、少なくとも3袋は行うという。また、病状の推移によっては入院もあり得るという。時間がかかりそうなので、会社に電話をするために点滴をつないだまま廊下に出た。電話を切ると、それを待っていたかのように、東京消防庁の職員が近寄ってきた。住所氏名を書くように言われ、記入表を渡された。リストの番号は、私で「200」に近かった。周りでは、警察官もリストを持ち回っていたが、私には声はかからなかった。覗くと「当方被害者リスト」と書いてあった。朝の鑑識課員のように、いち早く現場に乗り込んで被害にあった警察官が多かったようだ。
 診察室に戻り、点滴が終わるまでじっと待つ。その間にも、次から次へと新しい患者がやってくる。負傷者の数の多さに驚いた。
 点滴が終わった。次は胸部エックス線撮影とのこと。2階のレントゲン室に移動する。ここがまた、負傷者であふれている。レントゲン室もたくさんあるのに、全然進まない。時間は既に4時に近い。さらに時間がかかるとなると、会社が気になるので医師に相談した。医師は、私の瞳孔を見て、「縮瞳の症状が改善しているので、今日は帰っていただいて結構です。ただ、帰っても頻繁に鏡を見て下さい。もし、瞳が1?以下になっているようでしたら、今日の夜中でも明日でも良いですから、すぐに来てください」とのことで帰る許可が出た。カルテを受け取り、救急外来の窓口に会計を頼んだ。すると、「この治療費は、どこが負担するか、まだ決まっていないので今日のところは結構です」。緊急事態の対応だった。
 
  私の被害は幸いにも軽かったので被害の深刻さを訴える材料にはならないと思う。ただ、この事件。事件後にメディアの取材を受けたり、他の被害者の話を聞き、多くの隠されたドラマがあることを知った。だから私の件もその中の一コマとして、敢えて発表することにした。
  今後も関係者皆さんのご尽力により、刑事裁判の行方も含めて、これらの犯罪の全貌が明らかになり、事件全体が解決される日がくることを切望してやまない。また、私自身も、胸の内からやりきれない思いが払拭される日まで、一連の成り行きを追い続けていきたい。
 

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