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   滋賀県蒲生郡 石塔寺の三重石塔(阿育王塔)

<湖東の渡来人>
天智天皇が667年に開いた志賀の都、近江大津京は、渡来人が活躍した都でもあった。琵琶湖の西岸に位置するこの地域には、朝鮮半島、特に百済からの渡来人が集住していた。

  • 志賀の都探訪
  • しからば当時の琵琶湖の東岸はどうであったのだろう。

    「日本書紀」天智8年(669年)には、百済人男女7百余人を近江国蒲生(がもう)郡に移住させた、という記載があり、愛知(えち)郡や神前(かんざき)郡も含めた湖東地域にも、当時既に百済系の豪族が住み着いていたとされている。行ってはいないが、蒲生郡日野町小野(この)には、大津京の学職頭(ふみのつかさのかみ、当時の文部大臣)を努めた百済人、鬼室(きしつ)氏を祭る鬼室神社があるらしい。

    さらに、蒲生郡蒲生町石塔(いしどう)には、百済様式の三重石塔が立っている石塔寺(いしどうじ)がある。また愛知(えち)郡愛東町には、湖東三山の一つで、その名も百済寺(ひゃくさいじ)という寺がある。そこで湖東の渡来人の史跡と思しき、これら石塔寺と百済寺を2005年9月19日に訪れてみた。

    <石塔寺>
    ゴルフ好きなら滋賀県の名門ゴルフコース、名神八日市カントリークラブをご存知と思うが、その傍にある。名神高速道路八日市ICから来ると、まさにゴルフ場の中を突っ切って行くので、こんなところに史跡があるのかと不審に思うくらいである。カーナビに石塔寺といれると、京都の向日市にも同名の寺があるので、下手をするとそちらへ連れて行かれる。

    社務所で拝観料を支払い、向かいの「阿育王山」の額がかかった門をくぐると、本堂がある。パンフレットの石塔寺縁起によると、飛鳥時代に聖徳太子が近江に48の寺を建立したが、石塔寺はその48番目の満願寺であり、もとの名を本願成就寺といった。最近屋根を葺き替えたのか瓦がピカピカ光っていた。

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             石塔寺本堂                       本堂内部
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             阿育王山門
                           
    山門に書かれた阿育王(あしょかおう)とは、昔、高校の歴史で習ったインドの王様の名前である。インドの王様とここがどう関係するのか。石塔寺縁起によると、阿育王が世界に仏舎利塔をばら撒いたが、そのうち二基が日本に飛来したと当時の一条天皇が聞き、探索を命じたところ、この寺の裏山の土中から塔が出現したとのことである。この塔が冒頭写真の三重石塔であり、従って阿育王塔と呼ばれる。かなり急な石段を登った頂上の平坦地にそびえている。

    このような経緯から、1006年に寺号が阿育王山石塔寺と改められ、七堂伽藍が建立され隆盛を極めた。しかし織田信長の焼討ちにあって一切が焼失し寺は荒廃した。その後江戸時代初期になって天海大僧正が弟子に命じて復興をはかった。現在の姿は昭和初期に整備されたものとのことである。

    <三重石塔の謎>
    阿育王塔と名づけられた石塔のことである。まさか言い伝えのように飛来して日本にきたわけではあるまい。史家の推定によれば、石塔の様式から奈良時代前期の建立とされ、百済の三重塔との相似・相関性から、ここに移住させられた百済系渡来人が、祖国の石塔を真似て立てたのであろうとされている。

    司馬遼太郎は、「歴史を紀行する」の近江商人を創った血の秘密(滋賀)の章で、この塔のことを、「塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである。」と表現している。

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     抽象化された渡来人?

    また、この頂に来ての驚きは、塔の周りの無数の石仏や五輪塔の存在である。塔の周りだけでなく、周囲の散策路や参道の両側にもおびただしい数の石仏がある。社務所のお坊さんに伺ったところ、鎌倉時代頃から、参拝する人々が自分の極楽往生を祈るためや、先祖の菩提を弔うために、数百年にわたって奉納された石仏や五輪塔であり、荒廃した時期を経て未だに地中にあるものも多く、数は不明とのことである。

    石仏には夫婦の姿を彫りこんだものや、武士の立ち姿のものもあり、どんな人が何のために奉納したのか興味をそそられる。無数の石仏や五輪塔を奉納した中世の人々は、おそらく天竺から飛来した阿育王の仏舎利塔と信じてお参りし、現世やあの世でのご利益を期待したのだろう。中には古の百済からの渡来人が建立した塔と知ってお参りした人もいたのだろうか。

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            林の中の五輪塔                  無数の石仏
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      武士の立姿石仏                夫婦石仏

    <百済寺>
    石塔寺から東北へ約10kmのところにあり、昨年愛東町が八日市市と合併したため東近江市に位置する。推古天皇時代の606年に聖徳太子の勅願により、高麗や百済の僧が百済系渡来人のために、百済の龍雲寺を模して創建したとされる近江の最古刹である。つまりこの一帯にも、当時既に百済からの渡来人が集住していたわけである。

    平安時代に天台宗寺院となり、鎌倉時代から室町時代にかけて多数の僧坊が並び、1000人以上の人が寺域内に住んで隆盛を極めたが、1498年の火事や1503年の兵火で焼失し一時は再興したものの、1573年の織田信長の焼討ちで灰燼に帰した。江戸時代に天海大僧正の弟子が入って復興が進み、藩主井伊直孝の援助もあって1650年に現在の本堂や仁王門が竣工した。

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          大草履がかかる仁王門                 百済寺本堂

    この百済寺には喜見院と呼ばれる坊があって池泉廻遊式庭園がある。庭園の山上からは湖東平野が一望でき、遠くに比叡山を眺望することができる。鎌倉、室町時代の百済寺の最盛期の頃は、小叡山と称されたらしい。喜見院庭園の説明板には、喜見望郷庭とある。すなわち渡来人たちが山上から琵琶湖越しに叡山を遠望し、さらにその先に滅亡した故郷百済があるのだと、望郷の念にかられたところであろう。

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                   渡来人が故郷を偲んだ喜見望郷庭

    <近江商人の血の秘密>
    滋賀県に住んでいるというと、かなりの人が近江商人のふるさとですね、という。近江商人は、戦国時代から江戸時代に全国を駆け巡って、農本経済の時代にあって商業経済を実践し、幕藩体制を覆した実質的な立役者ともいえる。

    石塔寺や百済寺のあるこの湖東地域には、八日市、五個荘、愛知川、蒲生、近江八幡、彦根など、近世近江商人を輩出した地域が集まっている。このウェブログでも近江商人についてはいくつか触れた。

  • てんびんの里
  • 湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-
  • 湖東の近江商人郷土館

    湖西の石積み職人「穴太衆」のルーツが渡来人であると同様、湖東の近江商人のルーツも渡来人であるという説がある。石塔寺や百済寺の起こりをみても分かるように、湖東地方にも早くから朝鮮半島からの渡来人が集住して高い文化が形成されていたので、そのことが計数に明るい多くの商人を生んだと言う説である。

    司馬遼太郎も、前述の「歴史を紀行する」の滋賀の章で、近江人の商才という特質は、朝鮮からの帰化人に帰すると考えるのが一番素直であるとし、菅野和太郎氏の著書「近江商人の研究」を紹介している。その大意は、商人的素質をもった高麗の帰化人が湖東に移住し、本国に習って市を開き、叡山と結んで専売権を確立、商権を拡張して飛躍し、農民、武士からの転向者を加え、全国の行商行脚に力を伸ばした、というようなことである。

    ところで、我々の年代は確かに帰化人と習ったが、国境がなかった時代に帰化人はないだろう、という理由で、最近は帰化人という表現は不適当とされ、渡来人という表現が適切らしい。

    <近江人の計数観念>
    司馬遼太郎は、なるほど朝鮮からの渡来人の血は、近江人の、特に脳髄に濃く流れているかもしれないが、北九州、山口、出雲、関東など他の土地の日本人にとっても同じであるのに、何故他では近江人のような商才をもたなかったのだろうと疑問を呈している。

    また商才があるということは利害損得にさとく、義理人情とは縁遠い行動をとる感じがするが、歴史上の著名な近江人を列挙すると、どうもそうではない人物が多いとも指摘している。近江人の武将には浅井長政、蒲生氏郷、石田三成、大谷吉継、木村重成、大石良雄たちがいるが、彼らはむしろ節を曲げなかったことで有名である。

    ただし彼らの多くは、計数観念や経済観念が発達していた。蒲生氏郷は、故郷の近江では日野商人を発達させ、転封先の伊勢では伊勢商人を育成し、さらに会津では漆器職人を移住させ、関東に日野椀を売る商人を育成した有能な財政家であった。石田三成は薩摩征伐の後、島津家に帳簿の作り方や経理技術を指導した有能な財政コンサルタントであった、とも言っている。

    つまり司馬遼太郎は、近江人のこういう商業的先進性はどこから生まれたのか、を探ろうとしていた。一つの見方が渡来人の血をひくということであった。石塔寺の三重石塔を見たり、百済寺の喜見望郷庭から湖東平野や叡山を見たりして、司馬遼太郎の呈した疑問を考えてみるのも、現代の滋賀県人のつとめかもしれない。