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日刊ベリタ : 記事 : 韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報2017(2017年5月1日発行)

2017年05月29日00時50分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201705290050561

歴史を検証する

韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報2017(2017年5月1日発行)

①2016~2017年の動きと今後の課題(編集部) 
②対馬から盗まれた観世音菩薩坐像問題について(菅野朋子) 
③長崎・高島、端島、対馬を訪れて(長澤裕子) 
④「返還考古学」という新しい枠組みへ(五十嵐彰) 
⑤関西国際ワークショップに参加して(森本和男) 
⑥「高麗仏画展」観覧記(森本和男) 
 
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【2016~2017年の動きと今年の課題】 編集部 
互いの文化財に触れ、建設的な対話と共同作業を大切に 
―対馬仏像盗難問題を超えて、文化財と歴史をめぐる未来志向の知的な議論へ― 
 
 朝鮮半島が激動し、緊張と不安が報じられています。 
日韓の最大の懸案は、「慰安婦」問題、領土、強制徴用・未払い賃金、そして文化財返還問題といわれています。 なかでも、2012年10月に対馬で起きた仏像盗難事件が、文化財返還問題に深刻な影響を与えたことは、知られるとおりです。「反韓」・「嫌韓」を超えて、一部メディアや「森友学園」などは「蔑韓」を煽ってきました。 簡単に修復できないところまで、相互不信の溝は深まってきているように思われますが、放置しておいてよいはずはありません。まずは現地に足を運んで、実情を正確に知ることです。 
 そこで今号では、対馬の仏像返還問題が今どうなっているのか?対馬と大田(テジョン)の現地を訪ね、関係者の話を聞いて、考えた報告を掲載しました。仏像の返還を阻んでいる裁判の判決も、正確に知っていただけるよう全文(翻訳)を紹介しました。韓国の寺院側は、「文化財返還問題」の土俵に持ち込むことによって、窃盗事件の被害品の返還を阻止しようとしていますが、どうみてもこの事件の本質は盗難事件です。すみやかな盗難品の返還・原状回復が求められています。 
 
<対馬仏像盗難事件の教訓> 
 他方、今回の事件をとおして、改めて朝鮮半島由来の文化財が日本各地、とりわけ半島に近い対馬や九州に多く存在し、しかもそれらが深く日本社会に溶け込んで、宗教上も受容されてきた歴史と現実が知られるようになってきました。植民地期、秀吉の朝鮮出兵時の文化財の流出・強奪、倭寇による略奪だけでなく、寄贈や寄託、宗教的な迫害から逃れての避難的な流出・移転のケースもあり、何百年もの歳月を経て、経緯についての歴史的な検証が極めて困難な、仏像や仏画、鐘、工芸品が多いことも明らかになりました。今回の対馬の事件を別にして、今後もますます多くの朝鮮半島由来の文化財が見い出され、それらの一部が韓国・朝鮮に返還を求められることは必至でしょう。「返せ」「返さない」の衝突と紛争が日本各地のどこかで再び起きることも想定されます。 
冷静な対応を呼びかけるのがメディアの使命と思いますが、逆に「歴史戦」などと称して、紛争拡大をあおるメディアも政治家も双方に存在します。非難合戦を互いに繰り広げ、忌み嫌うだけでは何も物事は解決しません。違いをことさら取り上げて、さげすんでみたり、過度に恐れあってみても始まりません。今や安全保障上のリスクや不利益も生じ、互いに一層不幸になるだけです。 
 
<建設的な共同作業を日常的に> 
 文化財をめぐる紛争を未然に防ぎ、沈静化させるための努力と工夫が必要です。残念ながら、国際法も国内法も、こうしたトラブルの解決にまだ十分追いついていず、現状では役に立たない場面が目立ちます。知恵をしぼってルールと紛争解決のために有効な仕組みと仕掛けを設ける必要があります。わけても、政治とメディア、専門家の役割は重要です。 
 具体的に、文化財に関わる専門家の情報と意見交換のためのフォーラム、両国議員が文化財の保存・活用・交流について語り、勉強する会合、メディアや教師向けのワークショップなど、マルチ・チャンネルで、できるだけ定例的に研鑚・交流が行われることが望まれます。ある日突然騒動が起きて、慌てて後を追うような底の浅い取材や提起ではなく、建設的で文化的な交流と未来に向けた共同作業を、若い世代を巻き込んで、着実に進めていく必要があります。 
 豊かな文化財に触れることがやはり大切です。昨年から今年にかけて、いくつか先駆的で有意義な試みや催しが行われました。 
 昨年4月から6月にかけて日本民藝館では「創設80周年特別展 日本民藝館所蔵 朝鮮工芸の美」展が開催されましたが、韓国国外所在文化財財団が同館所蔵の文化財を調査し、修復を助成した成果でした。 
 5月から7月にかけてはソウルの韓国国立中央博物館と東京国立博物館で特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」(韓国では「韓日国宝半跏思惟像の出会い」)がリレー式に開催され、韓国国立中央博物館所蔵の銅製の半跏思惟像と奈良県の中宮寺門跡(ちゅうぐうじもんぜき)に伝わる半跏思惟像が並んで展示されて、多くの来場者を魅了しました。 
 また6月には大阪・京都で「朝鮮半島由来の文化財を考える関西国際ワークショップ」が開催されました。このワークショップは今年も6月に京都・滋賀で開催予定です。 
 11月には京都・泉屋博古館、今年3月には東京・根津美術館で日本では38年ぶりの高麗仏画展「高麗仏画―香りたつ装飾美」が開催されました。 
 国交樹立以来、日韓関係が最悪というこの時期に、果敢に、地道にこうした共同作業と催しが行われていることは、大きな励ましです。韓国新大統領選出後に、日韓の葛藤も改善が見えるよう切望します。 
 
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【対馬から盗まれた観世音菩薩坐像問題について】 菅野朋子(フリーライター) 
 「この事件の仏像は原告・浮石寺(プソクサ)に奉安されるために制作されたことにより原告の所有である」 
 去る1月26日、韓国の大田(テジョン)地方裁判所(以下、大田地裁)は、対馬の観音寺から盗まれ韓国に持ち込まれた仏像「観世音菩薩坐像」(以下、仏像)の所有権が浮石寺に認められるとして、第一審判決をこう言い渡した。この裁判は、浮石寺が昨年4月20日に大韓民国(以下、韓国)を相手に起こしていた「有体動産引き渡し」裁判で、周知のとおり、冒頭の判決が日韓で再び物議を醸している。 
被告である韓国政府は、即日控訴し、3月21日には同地裁で控訴審が開かれた。私はこの控訴審を傍聴したが、事態の論点がかなりずれてしまっていることを痛感した。なぜ、ここまでこじれてしまったのか。ここで、この事件の経緯をざっと辿ってみたい。 
 
■仏像盗難事件の経緯 
 事件は、5年前の2012年10月6日、対馬で起きた。対馬にある海神神社から仏像「銅造如来立像」が、そして、観音寺からは現在、問題となっている「観世音菩薩坐像」、さらには、多久頭魂(たぐずだま)神社からは経典一巻が盗まれた。いずれも朝鮮半島で制作されたもので、「銅造如来立像」は新羅時代に、「観世音菩薩坐像」と経典は高麗時代に制作された。 
 犯人は総勢8人。実行犯4人、運搬役や対馬への渡航資金提供などのスポンサー4人で構成されていて、実行犯は下見のために3回ほど対馬を訪れていた。彼らは、韓国内でも文化財や古美術品窃盗の前科があり、この事件を起こした動機も金銭目的と判明している。 
 盗んだ仏像は対馬から博多港経由で釜山に持ち込まれ、釜山港で鑑定官により「贋作」と鑑定され、税関を通り抜けた。経典は逃走途中で対馬のどこかに捨てたと犯人は供述したが、これについては後述する。 
 仏像は、釜山から西に位置する昌原(チャンウォン)市の水産市場倉庫に保管された。この昌原は、資金援助をしたスポンサーの地元であることが分かっている。 
 その後、実行犯らは知り合いの古美術商を通して仏像の写真を全国の古美術商に配った。写真を見た古美術商の中でソウルの仁寺洞(インサドン)と大邱(テグ)の古美術商が仏像を鑑定するため に昌原を訪れていて、その時提示された価格は10~12億ウォン(当時のレートでおよそ1億~1億2000万円)。現金払いを要求されたという。仁寺洞の古美術商は、8億ウォンであれば購入していたと話し、大邱の古美術商は12億ウォンで手を打とうとしたところ、犯人らが価格をさらに引き上げたために物別れに終わったという。いずれも捜査に携わった大田地方警察広域捜査隊の刑事の話である。 
 犯人は、対馬で盗難が発覚した後、国際刑事警察機構(インターポール)を通して指名手配となっていたが、取引を持ち込まれたある古美術商が不信に思い警察に通報したことが端緒となり、2012年12月末に韓国で逮捕された。 
 犯人が逮捕された当時、韓国文化財庁関係者は、「文化財の窃盗事件では、ともかく文化財の確保が第一。犯人逮捕が先になると、証拠隠滅を図り、文化財が壊されたり、焼かれたり、また、行方不明になる確率が高くなる。今回は、犯人逮捕もできて、なにより贓物の仏像も確保できてほっとしている。もし、売られていたら仏像を探し出すことは難しかっただろう」 
 こう言って安堵していた。そして、「犯人の刑が確定したら、ユネスコ条約(文化財不法輸出入等禁止条約)と韓国の文化財保護法に則って、日本に返還する手続きを踏めばいい」とも話していた。 
 
■浮石寺の提訴 
 ところが、2013年1月31日、思いがけないことが起きてしまう。浮石寺が、「観世音菩薩坐像」は倭寇によって略奪された当該寺の所有であると主張し、「有体動産占有移転禁止仮処分申請」を大田地裁に提出したのだ。大田地裁は翌2月25日にこれを認め、「仏像が浮石寺の所有だと証明されるまで韓国政府は仏像を日本に返還することを禁じる」という判決を出し、仏像は韓国に留め置かれることになった。 
 ここで私も含め日韓のメディアは、仏像の所有権について証明する義務が仏像を盗まれた観音寺側にあるととり違えていたが、ここで所有権を証明すべきは浮石寺側である。 
 浮石寺がこの仮処分を申請したのは、1951年、観音寺で発見された観世音菩薩坐像の腹蔵物に、「高麗国瑞州(ソジュ)浮石寺」と「天歴三年」と書かれた文書があることを根拠としていて、「仏像は倭寇により略奪されたもの」と主張した。 
 対馬の観音寺では仏像は数百年前から観音寺に奉安されていたと話すが、譲り受けたという記録はない。この仮処分により、観世音菩薩坐像は韓国に留め置かれたが、銅造如来立像は、犯人の刑が確定した後の2014年7月、海神神社に戻された。 
 浮石寺が申請した仮処分の効力は3年だった。韓国の弁護士の説明は次の通りだ。 
「韓国の民事執行法では(仮処分)執行後、3年の間に本案訴訟が提起されない場合は、債務者および利害関係者が仮処分の取り消しを求めることができる(第288条1項3条)としています。つまり、取り消し申請ができるのは、債務者である韓国政府か、利害関係者である、日本の観音寺となります。 
 この韓国政府か観音寺が取り消し申請をし、認められれば「観世音菩薩坐像」は日本に返還されることになりますが、そう簡単ではありません。 
 いずれかが仮処分申請をした場合、裁判所はまずその申請自体が妥当なものかどうかについて審査します。また、利害者である観音寺が果たして利害関係にあるかどうかについてはあくまでも裁判所の裁量によるので、利害関係にあると認められない可能性もないことはない」 
 効力が切れる 2016年2月末頃、韓国政府関係者に取材したところ、当時、韓国政府は仏像を返還する方針で、タイミングを見計らって手続きを進めているという話だった。また、浮石寺側の「瑞山浮石寺金銅観世音菩薩坐像を元の場所に奉安委員会」の李相根(イ・サングン)共同執行委員会委員にも会い、話を聞いたが、こんなことを言っていた。 
 「仮処分の取り消し申請が提出されれば、その時は訴訟しようと考えていて、準備している。日本の資料を見ると、観世音菩薩坐像は一方的な請求により渡来したという記述があり、これは略奪を意味するものと思われる。訴訟の準備と並行して国際機構へ訴える準備もしているところだ」 
 
■観音寺住職の韓国文化財庁あて要望書 
 一方、この頃観音寺の元住職、田中節孝氏からも連絡があり、知己のメディアから何らかの行動を起こした方が良いというアドバイスを受けたと言い、韓国の外交通商部、法務部、文化財庁宛てに手紙を送ろうかと思うので、宛先等の調査と、手紙郵送後には受け取り確認をしてほしいと依頼された。手紙の内容は次のとおりで、田中節竜氏は節孝氏子息で現住職である。 
 
■韓国メディア・識者の反応 
 こうした観音寺の動きが韓国メディアで報じられると、浮石寺は前述の李相根委員が話していたように4月20日、冒頭の判決が出た「有体動産引き渡し」の裁判を起こした。 
 また、この手紙について“なしのつぶて”だったため、韓国文化財庁に電話を入れたが、「係争中なため何も答えられない」という返事だった。そして、この後、田中元住職はフジテレビの番組に出演するため韓国を訪れ、韓国文化財庁に保管されている仏像を確認したいと申し込んだが、同じ理由で断られている。 
 
 冒頭の第一審判決の時期が、韓国の朴槿恵(パク・クネ)前大統領の弾劾審判前ということもあり、それほど大きくは報じられなかった印象があるが、韓国メディアもこの判決には疑問を呈すような内容が目立った。 
 例えば、保守系の朝鮮日報は、「萬物相」(2017年1月31日付、金テイク論説委員)というコラムで、仏教 美術の権威である、鄭永鎬(チョン・ヨンホ)檀国大学客員教授の「対馬には現在、数十体の韓国の仏像がある。この中には倭寇が略奪したものもあるだろうが、通常の経路で経て渡ったものも相当数ある。対馬側と協議して、数体は返還の話し合いが順調に進んでいたが、今回の判決で水の泡になりそうで無念だ」というコメントを引きながら、「日本にある韓国の文化財は数十万点に達すると推定されている。特に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)や日本による植民地支時代に奪われていった物が多い。対馬の仏像は略奪品であるかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、泥棒が盗んできた仏像を裁判所が推定だけで『日本に返す必要はない』と判断したことは、別の問題を引き起こす。法ではなく『愛国』に基づいて判決を出したとすれば、より大きな災いとして跳ね返ってくるかもしれない。また、韓国側の正当な文化財返還要求に冷水を浴びせる可能性がある。米紙ニューヨーク・タイムズもこの判決に関心を示した。今や他国の人々が韓国をどのように見ているのかも考えなければならない。それだけの国に韓国はなったのだ」と報じた。 
 また、2月21日、進歩系のハンギョレ新聞は「数奇な浮石寺の金銅仏像500年前の足跡を誰が知っているだろうか」というタイトルでこう報じた。重要だと思われる部分を抜粋する。 
 「浮石寺の円牛(ウォヌ)住職は『交流など正常な方法で仏像を日本に渡したならば仏像の中にある腹蔵物を空けて渡すのが正しい。仏像の中の腹蔵物がそのまま発見されたということは仏像が略奪された重要な証拠』だとし、『観世音菩薩坐像は本来あった瑞山・浮石寺に戻さなければならない』」 
 「1926年刊行された『瑞山(ソサン)群誌』を見ると、浮石寺から約2キロ離れた倭懸里(ウェヒョンリ)〔現在の倉里(チャンリ)〕の地名の由来を、『倭寇が侵入し、略奪行為を犯した際、軍がこれを捕まえてつるし上げたことに由来して村の名前をつけた』と説明していて、村の名が『倭寇の首をつるした』という意味はそれだけ瑞山地域での倭寇の侵略が酷かったというのが浮石寺の主張だ」 
 「裁判所は仏像の中の腹蔵物がそのまま入っていた点と仏像がどう動かされたのか記された移安文がない点を判断の根拠とした」 
 「日本の学者の説も略奪の証拠として採択された。菊竹淳一九州大学名誉教授は、西日本文化協会が発行した『対馬の美術』(1978年)で『観音寺は朝鮮に渡り悪行を犯していた河野氏が帰国して作った。1330年制作された高麗仏像が存在するのは倭寇により一方的な請求があったと推測される』」 
 そして、最後に、朝鮮日報と同じく鄭永鎬檀国大学客員教授と慧門(ヘムン)さんの言葉を引用して記事を締めている。 
 「鄭永鎬檀国大学客員教授は『盗んできた物のため戻すのが原則だ。浮石寺から略奪されたという直接的な証拠がない状態で盗難品を日本に戻さないのはとんでもないことだ』と主張した。国外の韓半島の文化財を元の場所に戻す運動をしている慧門さんは、『単純な盗難事件であるこの問題を文化財返還問題と錯覚して状況がこじれた。第一審裁判は浮石寺と韓国政府の間で繰り広げられたもので、日本の観音寺との裁判ではない。韓国の裁判で浮石寺が勝っても日本は結局、この問題を国際裁判所まで持って行こうするだろう』」 
 朝鮮日報もハンギョレ新聞もこの問題をどう処理すべきかを読者に投げかけ、どちらも仏像が盗難品であるという点を強調している。 
 
■論点は文化財返還問題ではなく窃盗事件 
 3月21日に行われた控訴審では、浮石寺側は、腹蔵物に「高麗国瑞州浮石寺」と記されていた文書があったことなどを挙げ、再度、所有権を主張した。これに対し、韓国政府側(検察)は「その文書が高麗末期に作られたか科学的に検証されていない」と反駁し、現在の浮石寺が当時の浮石寺から続く同一の寺かどうかを立証すべきとも主張した。 
 控訴審の公判後、メディアにマイクを向けられた浮石寺の円牛住職は、「一審判決後の報道を見て、どこの国のメディアなのかとがっかりした。きちんと報道してほしい」と訴えていた。 
 この問題がこじれてしまったのは、問題の論点がすり替わっているためだ。慧門さんがハンギョレ新聞で話しているように、この問題は窃盗事件という刑事事件と考えるべきで、文化財返還の問題ではない。所有権問題は仏像返還後に日韓で話し合うべきだろう。 
 韓国で新しい大統領が誕生する前の解決を願っていたが、次の公判は5月16日で次の大統領誕生後だ。新しい政権に移った後、この問題がまたどう動いていくか・・・、引き続き、問題提起していくほか方法はないだろう。 
 最後に、犯人が捨てたという多久頭魂神社の経典については、真偽のほどはまだ調査中だが、すでに出所している実行犯と接触したという人物が問いただしたところ、「大事な文化財を捨てるはずがないと思って聞いたら、どこかに売り飛ばしたようだ」という話だ。 
 
                     2016年3月10日 
文化財庁庁長(長官) 羅善華(ナ・ソンファ)殿 
                     観音寺住職 田中節竜 
 
貴国における現在仮処分中の対馬観音寺所有・観音菩薩坐像についての要望書 
 
謹啓上 時下 早春の候 貴下には愈々ご清祥のこととお慶び申し上げます。 
 さて、標記の件につきまして一言申し述べさせていただきます。標記の観音菩薩坐像は数百年の間、当寺の本尊として当寺に祀られ、信者の篤い信仰の対象として今日まで護られてまいりました。 
 ところが、去る2012年10月、貴国の窃盗団による盗難事件で、盗難の憂き目に遭いましたが、幸いにも犯人は貴国において検挙され、犯人の刑も確定したやに聞き及んでいます。 
 それにもかかわらず、未だに観音菩薩坐像は観音寺にはお帰りになっていません。信者にとって盗難に遭ってこのかた、心が休まることはありませんし、私達は何時になったら心の安穏が訪れるのでしょうか。 
 貴国に盗品として保管されている、観音菩薩さまが鋳造されたのは、貴国の浮石寺にご縁のあることは存じ上げています。 
 とは言っても、数百年の歴史には逆らうことはできません。そもそも貴国で製作された仏像が如何なる理由で対馬、しかも観音寺の本尊として存在するのか申し上げます。 
 観音寺は、対馬市厳原町にある西山寺 の末寺です。西山寺は 1512 年、およそ 500 年前、対馬の藩主である宗氏によって創建されました。 
 開基は宗氏10代貞国の室である、西山寺殿心鏡妙照大姉。開山は宗氏 8 代貞盛の子息、景林宗鎮禅師です。 
 創建の目的は貴国との交流促進のためであります。地理的にも日本よりむしろ貴国に近い対馬は、有史以来隣国との交易を生業としてきました。 
 特に交流が盛んとなる中世以降、外交は複雑になり様々な先例ができました。各種の先例は外交文書、特に東アジアの共通言語である漢文によってなされ、外交文書に精通した専従の役が必要とされたのです。 
 当時の専従の役目を任されたのが、漢文を常用して操ることのできる禅僧でした。西山寺の開山である宗鎮禅師が師事したのが、当時わが国の第一線で活躍していた、京都・天龍寺の外交僧である仰之梵高禅師です。 
 豊臣秀吉の貴国への不幸な出兵がありましたが、その後我が国を統一した徳川家康の時代 になると、破綻していた貴国との友好関係は、対馬・宗氏の幕府への働き掛けもあって、貴国との友好関係は修復し始めました。 
 その魁となった己酉約定も西山寺の外交僧によって起草されました。貴国の友好の使者であった松雲大師(惟政・四溟大師)と対馬の外交僧が会見したのも西山寺でした。 
 そんな功もあり、当時の貴国の国王より、西山寺の住持に賜った袈裟と衣は、今日も西山寺の寺宝として大切に保管されています。 
 この約定によって貴国と我が国との友好関係は深まり、貴国より朝鮮通信使が派遣されることになりました。 
 貿易も拡大し、釜山には対馬藩の倭館が設けられ、両国に多大なる利益をもたらしたのです。この中心的な役割を担ったのが西山寺であり、禅僧達でありま した。西山寺の末寺は島内に 20 ヶ寺を超え、その他に明治維新まで釜山の倭館内には東向寺がありました。各末寺には多くの僧が駐在し、本寺である西山寺を維持し、貴国との親善外交や住民のために働きました。 
 ですから、今日も西山寺を始め各末寺には、貴国からもたらされた仏像や、多くの文物が大切に保管されています。 
 先に申し上げました通り、観音寺の観音菩薩さまは、貴国との友好関係悠久の歴史の証であります。 
 貴国から渡って来られた観音菩薩さまが、貴国と我が国との新たな諍いの原因になってはなりませんし、観音さま自身も決して望んではおられません。 
 何故ならば、観音菩薩さまは苦難に喘ぐ対馬の民のために、生きとし生ける者のために大慈大悲・苦与楽の御手を垂れて、対馬の地を踏まれたの であります。 
 貴国からもたらされたのは、友好親善、交易による富、文物のみならず、今日の日本人の精神上の根幹をなしている仏教の教えそのものであります。 
 貴下には、諸々申し上げましたが、私の趣意をご斟酌頂きまして、何卒、後世に禍根を残すこと無きよう御配慮賜りますことを切に要望致します。 
 尚 貴庁に保管されている観音菩薩さまにお参りしたく存じますので、その節には何卒ご許可下されたくお願い申し上げます。    誠恐惶頓首敬白 
 
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【長崎・高島、端島、対馬を訪れて】長澤裕子(東京大学大学院総合文化研究科 韓国学研究センター特任講師) 
 2017年1月末から2月初めにかけて、旧正月の連休に合わせて、長崎の高島、端島、対馬を訪れた。折しも浮石寺の裁判の判決直後だったので、対馬では市役所や郷土研究家の方々に観音寺の盗難仏像の件や日韓関係への思いも聞いてみた。高島の石炭資料館、対馬の亀卜(きぼく)神事(国の重要無形民俗文化財)と文化財の問題などについて、かいつまんで旅行記と対馬の盗難仏像事件の所感をまとめてみたい。 
 
■高島の資料館で聞いた端島(軍艦島)の歴史 
 1月29日、早朝の便で羽田から長崎に移動し、軍艦島こと端島のツアーに参加した。ツアーはいくつかの会社が運行しているが、高島にも上陸する軍艦島ツアーに乗船した。長崎湾を進みながら、三菱重工長崎造船場に接岸されたクレーンを横目に、船艦やイージス艦など長崎の造船の歴史を聞いた。教会や原爆、近代化と、歴史の表裏が幾重にも交錯している長崎を感じた。 
 出航からおよそ30分。まず高島に上陸し、長崎市高島石炭資料館の展示を見学した。資料館は、三菱高島炭鉱労働組合の事務所として1959年に建設された建物で、写真の通り、外壁には「祝 世界文化遺産登録 明治日本の産業革命遺産」の垂れ幕があった。館内には年表「端島のあゆみ」や鉱夫の装備や道具が展示され、建物の外には軍艦島の模型小屋が設置され、軍艦島の歴史や構造が分かるよう工夫されていた。 
 ツアーのガイドが模型を前に、端島の建物について説明をしてくれた。島全体の構造や暮らしを把握するには好都合だったが、模型や展示、そしてガイドの説明にも、朝鮮の説明は何もなかった。 
 端島には、日本最初の高層アパートや映画館など、夢のような近代化の最先端の生活があったという。2013年のグラバー園訪問時にも気になったことだが、炭鉱や長崎の歴史や世界遺産は名誉あるきれいなものと描かれ、語られていた。端島には火葬場がなかったとガイドから聞いた。炭鉱は短い期間の理想郷として計画されたのだろうか。 
 資料館の年表から分かるのは、端島のあゆみは決して短くないということだ。1869年、佐賀藩が高島坑の開発に着手、1890年以降に端島は埋め立て工事を重ね拡大し、第一次世界大戦中の1916年には、軍艦に似た姿だと「大阪朝日新聞」で取り上げられたという。1945年には米軍の爆撃を受けたものの、戦後も三菱による経営が続き、1960年の国勢調査では、人口密度が東京の約9倍と世界一を記録した。1974年端島坑閉山、1986年には高島坑が閉山。いくつもの戦争と災害があった100余年。結局、その日は波が高く端島には上陸できなかったので、次回は別のフェリーに乗り、別の説明も聞いてみたい。 
 
■雷(いかつち)神社の亀卜神事 
 翌日の1月30日早朝、長崎から対馬に出発した。旧暦3日に合わせて対馬を訪問し、島の南西端の一村落の豆酘(つつ)地域を訪れ、雷神社の亀卜神事に参加した。亀の甲羅を焼いて村の漁や農業、地震などの自然災害を占う「亀卜神事」は、中国由来で朝鮮から対馬に伝わったという。神功皇后の新羅からの帰還時に、対馬に亀卜が入ったとする説もある。対馬の亀卜を扱う卜部(うらべ)たちは大和朝廷に用いられ、天下国家の吉凶を占った。しかし、大和朝廷は限られた者だけに亀卜を許可し管理したために、1871年明治の廃藩置県をきっかけに亀卜が廃れた。今では雷神社の亀卜神事が日本で唯一の行事だが、亀の甲羅も高価な上、高齢化で世襲も難しいという。 
 対馬の産業も高齢化や若者の島離れの影響を受けていた。対馬の若者は、進学や就職でほとんどが福岡など島の外に出てしまうという。旧暦の連休に対馬を訪問したため、韓国からの団体観光客が特別多かったが、一日平均2,000~3,000名程度対馬を訪問する韓国人観光客は、韓国から対馬に移住した韓国人が経営する旅館や韓国から随行した韓国人ガイドが対応しているそうだ。対馬で廃業した旅館を韓国人が買収し経営することもあるという。地元のガイドによると、専属の韓国人ガイドが韓国から随行し、団体の大型バスで移動する上、言葉の壁もあり、対馬の地元のガイドと交わることもなかなかないという。郷土史に詳しい地元の専門家の話を韓国の観光客にも聞き、共に語りたいと思った。 
 
■施錠され、開放を止めたままの観音寺 
 観音寺周辺は、特別にひっそりしていた。仏像の盗難事件以降、村のお年寄りは仏像が戻るのを待っているという。観音寺は施錠され、以前のように参拝のために常時開放するのは止めたという。非常に残念だ。 
 対馬で「略奪品と分かれば返還するか」と聞いてみると、ほとんどの人が、「仏像が倭寇による略奪品であれば、それはそれで対応を考えるが、まずは盗難品を一度戻してほしい」という意見だった。 
ただ、地元の人たちは郷土史家の研究成果をよく読んでいて、 
1)「倭寇は国際集団。中国や朝鮮の人も多くいたので対馬人のみの仕業とは言えない」 
2)「倭寇は対馬で不作のコメを奪っても、文化財の略奪は行わない」 
3)「倭寇の頭目は後に朝鮮の倭寇を手なずける政策に用いられるので、対馬に多く数存在する朝鮮文化財は正常な交流の中でされた。だからこそ、蕃神ではなく本尊仏として、今まで対馬で大事に管理してきた」 
と言っていた。 
 意外だったのは、国や県の下に位置づけられるからか、現場の対馬市が、韓国文化財庁など、韓国側と直接連絡を取れていないことだった。韓国文化財庁も、安全管理と国際交流の部局では盗難仏像に関する立場が異なるということだった。小さな離島の地方自治体が、進行中の裁判の情報収集からマスコミや国民の電話対応まで、大きく外交問題に発展した文化財問題を背負うにはかなりの負担ではないかと感じた。 
 市で文化財の管理やレプリカ作成など、文化財をめぐる 政策を進めるにはさらなる調査が必要だという。盗難防止策については、市民に支援金を出し一部は防犯カメラを設置し始めたが、少額の実費でも負担できない寺が多く、防犯手続きがなかなか浸透していないという。朝鮮通信使関連の文化遺産登録事業は、進んでいるというので、私自身は、この事業からでも何か日韓問題の打開策が見つかればと考えている。 
 
■「中央」に振り回されている島々 
 高島、端島、対馬と島を訪問した数日の旅行で、離島が中央に振り回されていると強く感じた。宗家の歴史や中央との関係を考えると分かりやすいかもしれない。対馬については、国境がはっきりしない時代が長く、国とも島とも表記した時代があった。島の中にも多くの地域の歴史や文化が見られ、血縁関 係についても同様で、新羅系の人々や国際的集団の倭寇など、時代を超えて地理的、文化的に、そして信仰面でも独特だ。 
 対馬の盗難仏像に関しては、政府と浮石寺の裁判だが、日韓の外交問題に発展し、日本の歴史認識や韓国の法的認識が問われている。限られた資料から分かることは断片的であり、分からないことも多い。資料の発掘により分析結果が補完されたり、主張が覆されるのが研究の常なのに、郷土研究家の研究結果が裁判の証拠として流用される事態が加速化しているようで、気がかりだ。今ここで、日韓が智恵を合わせて現状を打開するためにも、日韓の専門家と市民が対話を進めて両者の溝を縮め、文化財を倉庫に眠らせたままにしないよう、活用の方法を具体的に考えるべきではないだろうか。 
 
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【「返還考古学」という新しい枠組みへ~第8回世界考古学会議で考えたこと】五十嵐 彰(東京都埋蔵文化財センター主任調査研究員) 
 本稿は、2016年8月28日から9月2日にかけて京都・同志社大学今出川キャンパスで開催された第8回世界考古学会議(WAC-8)において文化財返還問題がどのように論じられたのかについて述べるものである。 
2016年8月31日から9月21日にかけて発表した拙ブログの各記事「第2考古学」(http://2nd-archaeology.blog.so-net.ne.jp/)、2016年10月10日発行の『東京の遺跡』第106号(東京考古談話会)所収の「WAC-8 が浮かび上がらせた世界の中の「日本考古学」」(106-3~4)と題する短文、2017年1月28日に北海道大学アイヌ・先住民研究センターで開催された先住民考古学ワーキンググループ2016年度第1回ワークショップにおいて「返還問題から見る先住民考古学の位相 -返還考古学という視座-」と題して行なった口頭発表を基にしている。 
 
1.世界の中の「日本考古学」 
 何年も前から大会専用のNPO法人を立ち上げて準備をしてきた世界考古学会議京都大会では、一週間の期間中に、開発・政治・ポスト植民地主義・倫理・比較・地域・教育・公共・理論・科学・宗教・相互交流・災害・芸術・戦争という15の大テーマが設定されて、それぞれに応じた159のセッション・テーマが割り振られて、総計1,477本の研究発表がなされた。 
日本で開催される考古学の学会としては、空前絶後の規模である。こうした口頭発表が、29会場で4日間にわたり同時進行で行われた。そのほか132枚のポスター発表、7つのエクスカーション(巡検)、創立30周年記念集会、記念講演、総会、サテライト会場での展示など様々な催しがなされた。 
 1,477本の発表のうち、352本(24%)が日本の研究者の単独ないし連名で名前を連ねている発表であり、テーマごとの日本人率が24%より高いか低いかによって、そのテーマごとの日本考古学の関心の度合いを推し量る一つの目安となっている。 
 
テーマ1:考古学と開発6セッション63本、日本の研究者発表8本(13%) 
テーマ2:政治2セッション7本、日本の発表0本 
テーマ3:ポスト植民地経験、考古学実践、先住民考古学14セッション90本、日本の発表4本(4%) 
テーマ4:考古倫理6セッション40本、日本の発表4本(10%) 
テーマ5:グローバル世界の比較考古学17セッション167本、日本の発表59本(35%) 
テーマ6:グローバル世界の地域考古学25セッション195本、日本の発表67本(34%) 
テーマ7:教育、学習・反学習7セッション53本、日本の発表6本(11%) 
テーマ8:市民、文化遺産、博物館19セッション181本、日本の発表28本(15%) 
テーマ9:未来への理論11セッション102本、日本の発表7本(7%) 
テーマ10:科学と考古学20セッション270本、日本の発表101本(37%) 
テーマ11:宗教と霊性5セッション43本、日本の発表5本(12%) 
テーマ12:相互交流8セッション65本、日本の発表17本(26%) 
テーマ13:災害考古学、未来のために過去を探る6セッション66本、日本の発表32本(48%) 
テーマ14:アートと考古学9セッション114本、日本の発表12本(11%) 
テーマ15:戦争、紛争4セッション21本、日本の発表3本(14%) 
 
 私は、テーマ3の「ポストコロニアルな世界での考古学の実践、調査地、産業、学界からの経験」というセッションCで「ポストコロニアルな時代の日本考古学と文化財返還問題」と題して発表した。 
返還問題に関わりのあるセッションは、D「考古学理論と実践、先住民共同体との相互関係」、E「蒐集の歴史、収集品の未来、博物館、復興、返還」、G「芸術と創造的なメディアの返還、返還への批判的・創造的対応」、H「返還アーカイブ」、I「返還の効果、癒しと幸い」、J「蒐集の世界的ネットワーク、19/20世紀の祖先遺物と遺産資源の世界的な獲得」、K「返還、アイデンティティ、未来への交渉」、L「返還とその発展、過程、諸問題」、M「先住民の経験と返還の歴史」、N「世界的な動向、各地の返還の対応」、O「博物館と共同体との協業、返還に関する考察」など11セッションにおよぶ。 
 テーマ3については、14のセッションが組まれたがその中で日本人の発表があったセッションは僅かに2つのみで、あとの12セッションでは日本人の発表が皆無であった。いかに「日本考古学」において植民地考古学あるいは先住民考古学という領域が軽視されているか、あるいは言い方を変えれば未開拓であるかが判る。逆にWACでは大会5日目の「創立30周年記念集会」として開催された講演会の主題として先住民考古学が採用されており、最重視の傾向が鮮明である。 
 
2.世界考古学における返還問題 
 WACの返還委員会(Repatriation Committee)は、11ある常置委員会(Standing Committees)の一つである。2名の委員長と7名の委員で構成されている。返還委員会は、1990年のベネズエラでの倫理コードの制定、遺骨返還について規定した 1989年のアメリカ・サウスダコタにおける「バーミリオン協定」、2005年のニュージーランド・オークランドでの中間会議、2006年の大阪中間会議で提起された人間遺体と聖なる遺物の展示に関する「タマキ・マカウ-ラウ協定」に基づいて設立された。 
 
 今回のWAC-8における1,477本の口頭発表の内で、発表題ないしはキーワードに「返還」がある発表は、以下の45本である。 
1. ポストコロニアルな時代の日本考古学と返還問題(五十嵐 彰) 
2. 考古学調査における先住民の聖なる遺物の調査・保管・返還:ブラジルにおける戦略と事例研究(ErikaRobrahn-Gonzalez) 
3. 調査と返還における伝統的所有者の観点(ThomasWales) 
4. 戦時期の収集品:人類科学における第二次世界大戦期ドイツのシンボルの返還(Dru McGill & JenniferSt.Germain) 
5. サーミの人々とフィンランド考古学(Eeva-Kristiina Harlin) 
6. 文化遺産への権利:サーミの人々の観点(BrigittaFossum) 
7. サーミ物質文化の初期近代における収集とサーミ文化遺産の今日(Carl-Gustaf Ojala) 
8. 先住祖先の人類遺物の収集と展示(Paul Turnbull) 
9. 21世紀ネットワーク状アーカイブの返還知(GavanMcCarthy & Ailie Smith) 
10. マナ(神秘的な力の源である魂)の返還、イビ・トゥプナ・ラパ・ヌイのデジタル・データベース・プロジェクト(Jacinta Arthur) 
11.博物館アーカイブにおける美術的な探査:返還に対する創造的反応と歴史的な脈絡(Julie Gouogh) 
12.返還と歴史のトラウマ(Russell Thornton) 
13.記憶とグローバル時代の返還・先住民・遺体返還:先住民的視点と植民地的視点から返還を位置づける(Gareth Knapman) 
14.返還・癒し・幸福(Cressida Fforde) 
15.返還と幸福:ンガリンジェの経験(Steve Hemmingetal.) 
16.マジマジ戦争の大量埋葬地と返還・アイデンティティ・治癒への挑戦(Nancy Rushohora) 
17.フランスにおける先住民遺物の獲得と使用(SimonJean) 
18.交換される遺物:科学的ネットワークと人類遺物の交易(Gareth Knapman & Cressida Fforde) 
19.ウィーンにおけるアンドレアス・リシェク・コレクションとニュージーランドへの返還の試み(Coralie O'Hara) 
20.私的競売施設と先住祖先・文化遺品の商い(HonorKeeler) 
21.ロシアと太平洋:探検・ネットワーク・祖先遺物の獲得(Elena Govor & Hilary Howes) 
22.彼らはより良いものを知っていたのか? 長期間の19世紀先住民遺品収集の道徳性と合法性(PaulTurnbull) 
23.ジム・クロウの帰還:ハンター渓谷における再埋葬と歴史の創出(Alexandra Roginski) 
24.人種と進化の理論化:長期にわたる19世紀オーストラリア・アボリジナル骨格遺体に対するドイツ人類学の実践(Antje Khnast) 
25.経済発展と国家創設として返還を脈絡づける(Daryle Rigney, etal.) 
26.虐殺の相貌:ドイツ研究所からナミビアへの遺体の返還(Larissa Förster) 
27.返還と喪失:何を失うのか? 誰のものなのか? どちらの自由か?(April Sievert) 
28.オーストラリア・ヨーク岬におけるアボリジナル遺物の由来確立に向けての科学的応用(MichaelWestaway, et al.) 
29.決して考えなかったことについて述べる:自然史科学博物館を脱植民地化する先住民たちの努力(Dorothy Lippert) 
30.キンバリー(南アフリカ共和国)における返還:概念的なアプローチと脈絡的な歴史(LyndonOrmond-Parker & Neil Carter) 
31.由来不明な祖先遺物のための国立オーストラリア保管場所(Lyndon Ormond-Parker, et al.) 
32.カクジャの死(William Bates & Barbara Johnson) 
33.ンガリンジェの返還:その歴史(Daryle Rigney,etal.) 
34.トレス海峡における返還:歴史・願望そして発展過程(Ned David) 
35. 先祖は、私たちに助けを求めている(DonnaAugustine) 
36.先住民への返還:グローバルな動向の勃興(Timothy McKeown) 
37.返還問題に対するドイツの関わり方(HilaryHowes) 
38.カ・ハカ・ホキ・マイ・テ・マナ・トゥプナ、ラパ・ヌイ返還プログラム(Jacinta Arthur) 
39.不正義の脈絡と重荷の移動:私たち自らの文化の輸出(Honor Keeler) 
40.故郷へようこそ? 非子孫コミュニティからの返還と人類遺品倫理の考察(Llenel De Castro) 
41.生者が死を忘却する時:博物館が所蔵する祖先遺物の返却が意味する交差文化複合(Paora Tapsell) 
42.トレス海峡祖先遺品の返却:ロンドン自然史博物館によるTSI伝統所有者へ(Margaret Clegg &Ned David) 
43.NAGPRA施行下における新たなパートナーシップの創出:アラスカ北極圏における協力と返還(Jayne-Leigh Thomas & Flossie Mongoyak) 
44.マンチェスター博物館からの返還:博物館からの自省と共同体的視点の10年後(Major Sumner &Tristram Bestman) 
45.返還協議:部族史構築の第一歩としてのパートナーシップ(April Sievert, et al.) 
 
 かように返還問題は、今や世界考古学の極めて今日的な問題であることが確認できる。他国からの不法な人間の流入は「不法難民」として、ある場合には本国に「強制送還」される。しかし他国からの不法な文化財の流入(不法文化財)については一般社会の関心は低く、進んで「返還」されることは殆どない。 
 
3.先住民考古学と植民地考古学 
 今回の世界考古学会議(WAC-8)においても、返還問題を巡る様々な地域の様々な主題を扱った研究発表が論じられた。しかしその多くは、先住民に対する返還を主題とするものであることも明らかである。北欧のサーミ、オーストラリアのトレス海峡の人々、イースター島(ラパ・ヌイ)の人々などなど。 
 返還問題については、近代植民地期に帝 国主義本国の人々が植民地諸国から持ち去った文化財の返還よりも、先住民とされる人々から持ち去った返還に力点が置かれている。こうした文化財返還といった意味でも、先住民考古学が先行しており、植民地考古学は立ち遅れているといった理解が一般的ではないだろうか。すなわち先住民考古学が扱うのは先住民に関わる事柄で、植民地考古学が扱うのは被植民地住民に関わる事柄であるといった認識である。私も会議に参加する前までは、そうした認識であった。しかし会議に参加し様々な人々の議論を聞く中で、先住民考古学と植民地考古学をそのように区分する考え方で果たしてよいのだろうかと考えるようになった。 
 これは、「先住民」という用語定義にも関わる問題である。アイヌ民族は先 住民だが、沖縄(琉球)の人びとは「先住民」ではないのか? 満洲や蒙古の地に住む人びとを対象としたかつての日本人考古学者の調査研究は、先住民考古学なのか、それとも植民地考古学なのか? 例えば同じイギリス帝国の植民地だったオーストラリアは先住民考古学の対象で、インドは植民地考古学の対象となるのか? 南アフリカやケニアやビルマはどうなるのか? カナダやパキスタンは先住民考古学なのか、それとも植民地考古学なのか? 
 このように考えると、先住民と植民地住民を区分する根拠が大変曖昧であることが分かる。むしろ先住民考古学と植民地考古学に共通する課題、すなわち「返還問題」という共通の課題をもって、全体の構図を捉える必要があるのではないだろうか? すなわち「返還考古学」という枠組みである。 
 1995年に北海道大学古河講堂の旧標本庫と呼ばれた部屋からダンボール箱に入れられた6つの頭骨が発見された。そのうち3つはウィルタ(オロッコ)、ニヴヒ(ギリヤーク)など先住民の頭骨であり、1つは植民地期朝鮮人の頭骨であった。それぞれ多くの人の努力により、それぞれの故地に返還されることになったが、本事例をもってしても先住民と植民地住民を区分することが意味をなさないことがよく分かる。 
 日本考古学協会も参加したアイヌ問題に関するラウンドテーブル報告書では先住民考古学の立場からこれまでの経緯について「深く反省し、社会的に批判される状況にあることを受け止め」「努力が足りなかったことを反省し、批判を真摯に受 け止め、誠実に行動する」としている。しかし植民地期における文化財返還については 2010 年 5 月理事会で表明された「様々な現代政治的問題が絡むこと」「一学会が扱うべき事案ではなく」といった見解を修正することなく維持している。 
 返還問題については、これまで先住民遺骨に関わる返還作業(人類学)が先鞭をつけてきたが、今後は遺物に関わる返還作業(考古学)の具体的な実践に向けての姿勢が問われている。なぜなら遺骨と副葬品は切り離せない一体のものだからである。 
 
4.返還考古学(Repatriation Archaeology)を! 
WACが常置委員会の名称に先住民(Indigenous)ではなく返還(Repatriation)を選択しているのには、意味がある。個人的にも考古学の立場から返還問題の解決に向けて努力していきたいと思うが、そのためになすべき課題も山積している。 
 例えば私たちは「開拓」という概念や「開拓者」という言葉について、もっと考えを深めなければならないのではないだろうか。現生人類(ホモ・サピエンス)が地球上に拡散して生活領域を広げて以後、人類が居住可能な多くの場所で人々は生活を積み重ねていった。現在「開拓」という言葉が用いられている文脈において、対象とされる土地が無人であったという意味での本当の意味での「開拓」は、殆どなかったのではないだろうか。すなわちその 土地に後から来た「開拓者」と呼ばれた人びと(自らを位置づけた人びと)が「利用されていない」と勝手に考えた「山野・荒地」が、実はその土地に前から居た人びと(先住民)によって異なる方法で「利用されていた」ことが徐々に明らかになってきたのである。ただ後から来た人びとには、そのことに気付かなかった、あるいは理解できなかった、理解しようとしなかっただけである。そして勝手に「開拓地」を「荒れている土地」だとか「不毛の地」などと決めつけて、実は豊富な地下資源や農作物を自分たちの都合で強奪して、近代化のための重要な資材としたのだ。多くの場合に後から来た人びとが前からそこに居た人びとの合意を得ることもなく自由に土地を利用するために暴力的にその土地を奪い 取っていった。それは北海道だけでなく、アメリカでも、オーストラリアでも、スカンジナビアにおいても同じような光景が繰り返された。 
 私たちは、日常的に用いられている「開拓」という用語、一方的な価値観を体現している言葉について、実態を正しく表現している「侵略」という言葉に置き換える必要があるのではないか。ポストコロニアルな時代に「開拓」という用語を何の注釈もなしに使う人は、自らの侵略主義的欲望を公言していると考えた方がいいだろう。他者の視点を考慮しない独り善がりな考え方、過去に関する私たちの認識が問われている。 
 「連累(れんるい)」と言う言葉がテッサ・モーリス・スズキさんによって提唱されている。英語で言えば「インプリケーション」すなわち「連座している、密接な関係を有する」といった意味である。私は直接に土地を奪わなかったかもしれないが、今、現在、奪った土地の上に住 んでいる。私は実際に虐殺行為に手を下さなかったかもしれないが、今、現在、虐殺という記憶をあいまいにして明確にしない状況に異を唱えていない、すなわち関与している。私は他者を具体的に迫害することはなかったかもしれないが、今、現在、迫害された他者に対して正当な対応がなされていないということによって、相応の利益を得ている。私は他者のモノを直接奪うということはしなかったかもしれないが、今、現在、奪われたモノが奪われたままである状態を黙認している。私たちが、今、現在、そうした現状を変更しようとする努力を怠れば、過去における偏見や差別、そのことによって生じた侵略的、暴力的、植民地主義的な行為は、現在にも将来にも継続していくことだろう。私たちは、過去 の偏見や差別、暴力に直接関わらなかったが、そうした過去の偏見や差別・暴力が、今、現在、私たちが生きている社会、世界を形づくったのは確かであり、私たちがそれらを解決しようとしない限り、それらは今、私たちが生きている社会、世界に存続し続けるだろう。歴史的な暴力が形作った現在に継続する不当な状態に対して、具体的な言論と行動によって変革を試みない限り、差別と排除、抑圧と暴力、支配と従属という関係性すなわち植民地主義は存続し続ける。それが「連累」あるいは「事後共犯」という言葉の持つ意味である。 
 小さな力を合わせつつ現存する不当な状態を改善することで、私たちが負う「事後共犯」という縄目を少しでも解きほぐしていきたい。 
 
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【第1回「朝鮮半島由来の文化財を考える関西国際ワークショップ」に参加して】森本和男(歴史家) 
 2016年6月4・5日に開催された「朝鮮半島由来の文化財を考える関西国際ワークショップ」実行委員会主催の講演会・見学会に参加した。このワークショップは、関西地方に多数ある朝鮮半島由来の文化財について、現状や来歴を知って理解を深め、文化財を活かした文化交流の発展につなげようという趣旨で開催された。 
 プログラムは、初日の4日(土)に、大阪・北区にある大阪韓国文化院で講演会、2日目の5日(日)に、大阪・京都の寺院や博物館をめぐるバス・ツアーである。主催者の実行委員会委員長は、連絡会議でもおなじみの姜健栄(カン・コンヨン)さんで、彼は70才を過ぎた現役医師、大同クリニックの理事長である。活力に満ちた恰幅の良い好々爺で、日本にある韓国文化財に ついて造詣が深く、関連著書も数冊におよんでいる。助成・協賛は、秀林文化財団理事長の河正雄(ハ・ジョンウン)さんで、彼は芸術家、美術品コレクターでもある。韓国に美術館を建て、収集した大量の美術品を寄贈した。文化交流にも強い関心を寄せ、さまざまな活動を支援している。後援には、駐大阪大韓民国総領事館・韓国文化院と、韓国文化財庁の下部組織である国外所在文化財財団が名を連ねていた。 
 
■初日の講演会 
 初日の講演会は朝10時から、大阪・韓国文化院長の朴英恵(パク・ヨンヘ)さんと秀林文化財団理事長河正雄さんの開会挨拶の後、レクチャーがはじまった。午前中に韓国から来日した3人、午後から日本在住の3人による講演である。 
 
 最初の講演で李基星(イー・ギソン、韓国伝統文化大学教授)さんが、朝鮮半島における植民地時代の遺跡調査について語った。日韓併合以前の古跡調査、併合前後の古跡調査、そして法令や行政機構の確立された以後の古跡調査と、年代をおって日本人による遺跡調査の特徴と問題点を列挙した。 
 2番目の講演で金廷禧(キム・ジョンヒ、円光大学考古美術史学科教授)さんは、仏教美術から見た6~8世紀の日韓文化交流について語った。日本に仏教が伝わった頃、朝鮮半島からの影響がいかに濃厚であったかを、寺院建築、仏像、絵画、工芸品などさまざまな事例を豊富な写真で示した。とくに飛鳥時代に朝鮮半島から渡来した工人たちが、日本の仏教文化発展に重要な足跡を印したと結論付けた。 
 3番目に姜林汕(カン・イムサン、国外所在文化財財団国際協力室長)さんが、世界に散在する韓国文化財に対して、韓国政府が進めている調査・保存事業について語った。2016年5月の時点で、世界20ヶ国582ヶ所に164,454点の文化財があり、その内の約4割に相当する71,375点が日本にあると国外所在文化財財団は把握している。日本にある韓国文化財で、早稲田大学會津八一記念博物館と日本民芸館所蔵のものを実態調査し、日本民芸館所蔵の文化財に保存処理の支援を行なった。今後も実態調査や保存の支援を続け、専門家や民間団体との交流も、拡大させていきたいと抱負を述べた。 
 
 午後からは、日本側の講演であった。最初に深田晃二(むくげの会)さんが、日本にある朝鮮石人像を紹介した。石人像とは、王陵等の墳墓の墓道に建てられた石像で、文官をしめす文人像、武官をしめす武人像があり、その他に童子像、石羊などもある。朝鮮石人像の所在をとりまとめた書物は皆無に等しく、深田さんは、全国をまわって場所を確認しながら、石像の詳細なリストを作成したのである。 
 2番目に姜健栄(KMAJ関西前会長)さんが、京都・大徳寺にある朝鮮半島由来の文化財と、大阪・正祐寺の高麗鍾を紹介した。大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、後醍醐天皇の時には五山の第1に列せられたが、15世紀には五山派を離れて在野の林下(りんか)となり、独自の禅宗を広めた。大徳寺の塔頭には朝鮮半島からもたらされた仏像、絵画、銅鍾など、多数の文化財があり、江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所にもなった。一方、大阪の正祐寺の高麗時代の銅鐘は、太平洋戦争の時に空襲で焼け、現在は5分の1しか残っていない。かつて韓国の蔚山(ウルサン)郡の臨江寺にあったとされ、金剛力士像を描いた秀麗な朝鮮鍾として戦前は国宝に指定されていた。その銅鐘が大阪市教育委員会などの援助で復元され、元の残骸は2012年に韓国の蔚山博物館でも展示された。 
 3番目に仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授)さんが、朝鮮通信使資料のユネスコ記憶遺産登録について語った。朝鮮通信使とは、江戸時代に唯一正式な国交関係を結んだ朝鮮からの外交使節団で、韓国の釜山と江戸との間を往復した。その使節団の歴史的資料のうち、日本側48件209点、韓国側62件124点、総計111件333点を記憶遺産として登録を申請する予定だという。登録の意義として、200年にわたって平和構築に 貢献した世界史的意義、文化的相互理解の促進などの点があげられている。本年(2017年)に登録申請が承認されることを期待したい。 
 講演の締めくくりとして、吉井秀夫(京都大学教授)さんが初日のプログラムをとめた。考古学者の吉井さんは、日本と韓国にある資料・文化財について事実を解明して情報を共有すること、日本へもたらされた経緯の解明、文化財の定義と意味を問い続けることの3点を、問題点として提起した。 
 
■2日目のバス・ツアー 
 2日目はバス・ツアーによる見学で、午前中に大阪、午後に京都というプログラムであった。まず朝9時20分に大坂・中之島の東洋陶磁美術館前に集合し、館内の陶磁器を見学した。東洋陶磁美術館の展示物は、旧安宅産業の安宅英一が収集したコレクションを土台にしている。約1,000件のコレクションのうち韓国陶磁は793件で、そのほとんどが高麗・朝鮮時代の陶磁である。しかし当日はちょうど「宮川香山没後100年」特別展開催中で、通常展示のスペースが縮小されていて、残念ながら朝鮮陶磁の展示は少なかった。 
 次に向かったのは、前日の講演で姜健栄さんが紹介した上本町の正祐寺である。 
 住職さんが、高さ約1mの朝鮮鍾を丁寧に説明してくれた。明治初期の廃仏毀釈で宮崎市平等寺から鐘が売りに出され、1874年に正祐寺が購入した。1945年3月の大空襲で焼けたのだが、空襲を避けるため地下に埋めていたのに、保管上よくないと役人に言われて掘り起こしたその翌日に、空襲に遭遇したそうである。不運としか言いようがない。焼け崩れて“ぺしゃんこ”になった鐘と、復元された鐘とがそばに置かれていた。 
 次に花博記念公園鶴見緑地へ向かった。花博記念公園は、1990年「国際花と緑の博覧会」の会場だった場所である。広大な公園の一角で、手入れの行き届いた芝生に石人像が林立し、その近くには韓国庭園も造営されていた。大阪の実業家山本發太郎が収集して芦屋市東山町の山本邸(白雲荘)にあった石像が、いくつかの変転をへてここに移されたという。山本發太郎は、独自の鑑識眼で佐伯祐三、白隠、仙厓などの作品を集めた特異なコレクターで、朝鮮、楽浪、高句麗の古瓦も集めていたと伝えられている。文人像や武人像、石塔などを見ていると、これらの石像は、仏像・仏画のように簡単に運べるものではなく、古物商などを経由して、日本に持ち込まれたのだろうという印象を受けた。 
 
 大阪を後にして高速道路を京都へと走り、京都市街北部の高麗美術館に着いた。高麗美術館の収蔵・展示品は、在日の実業家鄭詔文(チョン・ジョムン)さんが収集したコレクションが基本となっている。企画展「仏教の輝き・青磁の輝き」が開催されていて、鄭詔文の長男である常務理事の鄭喜斗(チョン・ヒドゥ)さんが、会場を回りながら詳細に解説してくれた。 
 次に京都国立博物館へと向かった。京都国立博物館は工事中で建物内への入館はできなかったが、構内の庭園は公開されていた。構内東側の小高い丘に石人像が10体以上並んでいて、石羊や燈籠も展示されていた。説明板によると、これらの石像は1912年大阪山本家の日本式庭 園の要所に巧みに配置されていたが、1975年同園の廃滅に際して、一括して寄贈されたという。この大阪山本家とは、芦屋の山本發太郎の関係者なのだろうか? 
 時間に余裕があったので、耳塚を見学した。耳塚とは、戦国時代末の豊臣秀吉の朝鮮侵略で、戦功の証(あかし)として削がれた朝鮮人の鼻を供養した塚である。京都国立博物館に隣接して秀吉を祀る豊国神社があり、その神社の前方に耳塚が位置している。 
 偶然にも耳塚のすぐ横に、丹波マンガン記念館再建を支援する市民グループの事務所があった。丹波マンガン記念館とは、兵器生産に不可欠だったマンガン鉱山の歴史を伝えるために建てられた施設である。たまたま今回のツアーに参加していた勝村誠(立命館大学教授)さんが、市民グルー プの関係者だったので、事務所の戸を開けて資料や映像を示しながら、強制連行の聞き取り調査などを話してくれた。 
 これでツアーは終わり、関西ワークショップの全プログラムも終了した。京都駅へ向かい、居酒屋で打ち上げをやって解散となった。 
 
■まとめ 
 日本と韓国は隣国同士にもかかわらず、対馬の仏像盗難事件、「慰安婦」問題などによって、ともすると反目しあう感情的世論が横行しがちである。しかしながら歴史的に見て、日本と朝鮮半島との間では絶えず人やモノが往来して、長らく東アジアで漢字文化圏、仏教文化圏をともに形成してきた。反目しあう昨今の事態は、長い歴史のなかで、むしろ異常な状況とも言えるだろう。双方の文化交流の長い歴史を、具体的に目で確認できる のが文化財である。古代から現代までのさまざまな文化財を身近で見ながら、なぜ隣国同士なのに感情的世論が跋扈するようになったのか、考えてみることが大切だと感じた。 
 今回のワークショップを企画・運営した方々、そして煩雑な事務・連絡役を引き受けていただいた阿吽社の小笠原正仁さんに感謝したい。 
 
*第1回ワークショップの詳しい報告集が発行されています。下記をご覧ください。 
第2回は今年6月17・18日に京都・滋賀で開催予定です。参加者募集中!連絡下記へ。 
 
<ご案内:好評頒布中> 
『2016年第1回ワークショップ報告書』 
頒価:500円(送料100円) 
発行:朝鮮半島由来の文化財を考える関西ワークショップ 実行委員会 
申込先⇒ workshop_0521@yahoo.co.jp 
住所:〒602-0017京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9 阿吽社気付 
Fax:075-414-8952 
郵便振替:00140‐9‐514310「朝鮮文化財ワークショップ」 
 
<ご案内:参加者募集中> 
朝鮮半島由来の文化財を考える関西国際ワークショップ2017 
●6月17日(土)京都・しんらん交流会館大谷ホール 
 12:30~13:00 ビデオ上映『朝鮮通信使と民衆』 
 13:00~17:00 レクチャー(崔応天、金成鎬、仲尾宏、松原一征、姜健栄) 
 *1,000円(学生・65歳以上半額) 
●6月18日(日)バス・ツアー 
 8:30~17:30 訪問・見学(近江八幡・本願寺八幡別院、朝鮮人街道、三井寺、高麗博物館、相国寺・慈照院) 
 *参加費3,000円(学生・65歳以上2,000円) 
 ➡問合せ・申込みは上記へ 
 
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【「高麗仏画展」観覧記】森本和男 
 京都の泉屋博古館と東京の根津美術館で、2016年の秋から翌年の春にかけて「高麗仏画展」が開催された。泉屋博古館所蔵の重要文化財に指定されている水月観音像の修復事業の完了を契機に、同様に重要文化財の高麗仏画の阿弥陀如来像を所蔵する根津美術館が協力して、2館の共同企画として展覧会が実現したのである。筆者は11月に泉屋博古館へ観に行った。 
 高麗仏画とは、朝鮮半島の高麗国(918~1392)で制作された仏教絵画を意味し、現在165件の存在が確認されている。そのうち日本に6割以上、約110件ある。韓国には約30件で、ほとんどが1980年以降に日本やアメリカから購入されたものだという。したがって不幸なことに、高麗仏画は、本来制作された朝鮮半島から過去に流失し、海を隔てた日本に一番多く残っているのである。日本では主に西日本の寺院や博物館などで、それぞれ1件かせいぜい数件の単位で高麗仏画が所持され、まとまって保管されているのではなく、分散している。日本にある高麗仏画の入手経路は様々で、また不明な点も多い。 
 渡来画と言うと、日本では古来から中国画を珍重する傾向が強く、高麗仏画が注目されるようになったのは戦後である。1978年に奈良の大和文華館ではじめて高麗仏画の特別展が開催され、以後独立した学問領域として位置づけられたとも言われている。高麗仏画をテーマとする展覧会は少なく、今回の「高麗仏画展」は、多数の高麗仏画を一堂に観れる、またとない絶好のチャンスと言えるだろう。 
 高麗仏画でまず思い浮かぶのは、透けた薄いベールを頭からかぶり、右足を組んだ半跏の姿勢でゆったりと岩場に座り、斜め下方に目を向けた水月観音像(楊柳(ようりゅう)観音像ともいう)であろう。仏法を求める善財童子が 53 人の賢者を訪ねる仏教説話から、南海の観音菩薩の浄土補陀落山(ふだらくせん)にたどり着いた善財童子が、海波の打ち寄せる岩に坐して母のごとく慈愛に満ちた観音に対面する場面を表現した絵である。類似した日本の絵画として、白衣(びゃくえ)観音像があげられるだろう。 
 会場では、修復された泉屋博古館の水月観音像と、同館所蔵のもう一件の水月観音像、大徳寺、奈良国立博物館、個人蔵のものが並べられていた。とりわけ大徳寺の水月観音像は、縦2mを超える大きな絵で目立っていた。近づいて絵をじっくり見ると、薄いベールは、ベール下の服や肌を描いた上に、輪郭と襞の描線にそって薄く白色を施し、数多くの線を重ねることによって透明感を浮き立たせていた。きわめて繊細で凝った手法が窺える。赤色の服、緑色の岩陰、朱色のサンゴ、茶色の光背などが微妙に組み合わされて、見事な色彩の調和を見せていた。 
 水月観音像以外に、阿弥陀如来像と様々な変相図があった。根津美術館の阿弥陀如来像は、体格の良い阿弥陀如来が高い宝台上の蓮華座に結跏趺坐(けっかふざ)する独尊像である。威厳に満ちた顔に、赤色と緑色の衣服が混ざり合い、下の宝台には様々な文様の描かれた名品である。変相図とは仏教説話や奇跡譚、経典を表現したものである。変わった変相図として、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を中心にして周囲に小仏をびっしり描きこんだ毘盧遮那仏変相図、中心にくつろいだ観音菩薩を配し、観音菩薩の服や周囲を、同じく小仏で埋めつくす万五千仏図が展示されていた。 
 高麗仏画の横では、水月観音像に描かれた浄瓶(じょうへい)や杯を想起させる青銅浄瓶、青磁陰刻蓮華唐草文浄瓶、青磁象嵌菊花文盃(せいじぞうがんきっかもんはい)などの小物も展示されていた。 
 仏画以外に、高麗仏教を特徴づける装飾経と経箱が並んでいた。装飾経とは、紺色、褐色、白色の料紙に、金銀で経文や絵を描いた経典である。美麗な経典の作成が、国家の繁栄と護国につながると考えられたのである。根津美術館所蔵の紺紙妙法蓮華経の見返絵、紺紙銀字妙法蓮華経の見返絵を見ると、日本の装飾経とくらべ、緻密な金線を過剰とも思えるほど埋めつくして、釈迦説法図を描いていた。 
 これらの装飾経を納めたのが経箱である。直方体の箱の蓋と各面に、細かい螺鈿で菊や牡丹の唐草文様が細密にほどこされた工芸品である。北村美術館所蔵の螺鈿牡丹唐草文経箱(らでんぼたんからくさもんきょうばこ)と、大和文華館所蔵の螺鈿菊唐草文小箱(らでんきくからくさもんこばこ)が展示されていた。日本や中国の経箱とくらべ、小さな細密な文様を、規則正しく一様に繰り返し充填させる幾何学模様が、高麗の経箱の特徴だろう。高麗時代には2回も大蔵経が開版され、また装飾経も多数作成されたので、経箱も大量に製作されたと予想される。しかしながら現在まで残っている経箱はきわめて少なく、見る機会もほとんどない。 
 朝鮮半島の仏教文化を伝える古美術品は少なく、しかも分散して所蔵されている。また仏画は、仏像と違って傷みやすいので、普段展示されずに倉庫に収納されているケースが多い。そのため今回の展覧会は、なかなか目にすることのできない逸品をそろえた内容だった。今後も質の高い展覧会が続いて、朝鮮半島の文化財を知る機会が増えることを期待したい。 
 
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【韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議 活動報告2016】 
5月14日 第6回総会&講演会開催 
6月1日 年報5号発行 
6月4・5日 関西ワークショップに参加 
*連絡会議を毎月1回開催 
*韓国側団体、研究者などと交流・情報交換 
*朝鮮・韓国文化財関係の情報収集・調査・研究 
*ビデオ上映会・講演会などの開催 
 
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【ご案内】 
韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議 第7回総会&公開勉強会 
日時:6月4日(日) 
 13:00-13:30総会 
 14:00-16:30DVD上映公開勉強会 
 *韓国KBSドキュメント「歴史紀行・九州編」(2016、50分×2本、通訳・解説=李洋秀) 
場所:大阪経済法科大学麻布台セミナーハウス4F中研修室 
 (地下鉄日比谷線「神谷町」下車2番出口から徒歩8分) 
連絡先:03-5545-7789 
参加費:500円 
 
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