6月9日という日を,高知市民はしっかり記憶しておかねばならない.それは1971年のこの日に起こった1つの事件,いわゆる「高知生コン事件」によってである.

 生コン事件とはどういう事件だったのか.小倉文三さんのJanJan記事,「アカメ(怪魚)が11匹も釣れたぞ!」http://www.news.janjan.jp/area/0808/0808265573/1.php
から,かいつまんで紹介しよう.

(以下引用)
 戦後、よりによって県庁所在地の市街地にできた高知パルプは、それまでの20年間、毎日1万3000トンのパルプ廃液を流し続けていたのです。(中略)川と海は、「コーヒー色」になり、異臭を放っていました。逃げ出したくなるような大気汚染も、地域住民を苦しめていました。しかし、工業優先の県は高知パルプの味方でした。激しく、粘り強い交渉が繰り返され、高知パルプは「守る会」とは今後もう交渉はしないと表明しました。
 そのため、1971年、「守る会」の会長と事務局長は、2人の若者の力も借りて、実力行使に出ました。
(引用おわり)


 会社側は,もう住民とは交渉しないと通達.県行政は住民より会社の味方.さて,君ならどうする? 
 引用を続けます.

(以下引用)
 それは、高知パルプの排水管にコンクリートミキサー車から生コンを流し込み、排水管から廃液を道路に溢れさせ、パルプ廃液の現実を白日の下に晒すという計画的犯行でした。
(中略)
 (生コン事件をおこした)山崎圭次さん、坂本九郎さんは刑事裁判にかけられました。公害の告発者が、裁判の被告になった唯一の事件でしょう。東京からは、東京大学の宇井純氏が特別弁護人として駆けつけました。最初、ソファーにふんぞり返っていた宇井純氏は、山崎圭次さんの自然観を聞いているうちに、背筋を伸ばし、座り直したそうです。もちろん、高知パルプの公害に泣かされていた地域住民は、「守る会」の実力行使に拍手喝采を送りました。 世論は、圧倒的に「守る会」の味方でした。そして、事件の翌年、高知パルプは高知県から撤退していきました。江の口川から浦戸湾へのパルプ廃液の流入は、阻止されたのです。
(引用おわり)


 汚染水を吐き出し続ける排水管に,住民側が生コンクリートを流し込んだ事件,これが世に言う「高知生コン事件」である.住民運動の高まりによって日本全国から「公害」が駆逐されることになる,そういう一時代を象徴する事件である.この「実力行使」には批判もあるかと思う.しかし住民側としては1日も早く健康障害の元凶を排除せねばならない緊急性があった.そして実際この行為は,いま考えうる他のどの手段よりも早く,有毒物質の垂れ流しを終らせた.
 当時の映像を見ると,住民側の人々の顔がなつかしい.面識のある方はいない.しかし昔の高知市民は,確かにこういう目をしていた.肚(はら)の底から,物事をしっかり見据えている.こんな目をした人が,今の高知市にはとても少なくなってしまった.