『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

田村麻呂伝説 福島県 2

2011.07.20

カテゴリ 田村麻呂~その伝説と実像 (19)

 延暦の年、田村麿利仁は大滝根山の鬼人を征伐するためこの地に来たが、阿武隈川が大雨のため増水した。支流の手洗川に浮洲が出来たが、その浮洲の丘にあった市杵島(日出山)神社に祈願したところ水が引いたので、阿武隈川を渡ることができた。
                 (郡山市日出山)

 田村麻呂が成長し蝦夷討伐に訪れた時に母・阿口陀媛と逢った所が行合橋です。二人が待ち合わせをして合った所から行き合い橋という名前が付けられました。
                    (郡山市)

 田村麻呂は生れた家からほど遠くない、騎陣取(郡山市田村町徳定) で騎兵を訓練して陣取らせていました。また、そこからすこし離れた田村森(郡山市田村町手代木)で兵士を駐留させていました。近くには田村麻呂が休息した腰掛石(郡山市荒井町)や矢を掛けた矢掛松(田村郡三春町沼沢)があります。
                   (田村地域)

 田村麻呂は、赤木の阿尺国造古墳で、戦勝の祈願をしました。
                 (郡山市赤木町)
 
 藤原阿黒丸は、陸奥小野郷須萱村大嶽に籠もって天下の貢ぎ物を掠め取り、民家に入って財宝を奪ったりしていました。そのため田村麻呂は小倉字一斗内(須賀川市)に下向し、千余騎の軍勢でこれを攻め滅ぼしました。      (須賀川市)

 大滝根川の東岸の山林付近一帯は巨岩怪石が露出していて岩の下に二つの洞窟があり、大きさは大人が入れるくらいです。昔この赤沼不動尊に大蛇が棲んでいました。大蛇は年が老いるに従い化身して里に出て婦女子を暴行したり悪行を重ねるようになったので、土地の人々は山に火を放って焼き殺すことにしました。大蛇はいたたまれず火傷を負って対岸に渡り、田の中で息絶えました。大きさは二升樽くらいで長さは五、六間もあったといいます。
               (郡山市中田町赤沼)

 桓武天皇延暦年中坂上田村麻呂将軍当地賊徒討伐の際、深霧にて遮られ容易に誅伐出来ず高野ヶ丘に陣を取り天神地祇に祈誓したところ白羽神鳥空中を照らし飛来して鶏鳴しその方向を示し、是を合図に進行しその神通力によって雲霧たちまち晴れエミシ巣窟を破り平定した。   (田村郡三春町実沢・高木神社社伝)

 大滝根山に住んでいた大鬼丸の子分・悪路丸に拉致されてきた京都の公家の娘、薬師瑠璃姫のために食糧を作った藤平五郎の名をとって地名としました。
         (郡山市中田町高倉字藤平五郎内)

「賊はどこにいるか」と田村麻呂が聞きますと、里人は「あの山」(郡山市中田町高倉字阿ノ山・国見山に近い)と答えました。「阿の山」を越えて過足(よぎあし)で里人の家に泊まったところ田村麻呂の背が大き過ぎ、寝具から足がはみ出でてしまいました。さらに進んで一夜を明石神社(田村郡船引町堀越)で明かしました。そして門沢(田村市船引町)で朝手水、鎧ヶ作にて鎧を召し、清川内にて勢ぞろいしました。しかし当時、七里ヶ沢(田村市大越町牧野の一帯)と呼ばれていたこの地は木々がうっそうとして昼なお暗く、とうとう進路を見失ってしまいました。しかし万事休すのその時、一羽の白鳥が飛んできて軍を導きました。この白鳥が飛び立ったところを鳥生平、軍が駆け入った場所を欠入というようになりました。     (田村郡三春町過足)

 田村麻呂が、門沢山のお堂に泊まり、六観音を安置し戦勝祈願をしたところ、大勝を得たという。
       (明石神社の夜明石・国指定重要文化財。
             田村市船引町門沢字堂山)

 田村麻呂が、当地の堂山王子神社に戦勝祈願をし、祠前の石で夜を明かされたところ夢にご神託があり、戦いに勝利したという。
            (田村市船引町堀越字明神)

 田村麻呂は戦勝を祈願して、大きな楠を三分割して三体の観音像を作り、三ヶ所にお堂を造って祀りました。その中でも特に大きな部分で作った観音像を三姉妹の中でも大姉の観音像ということで姉屋観音と呼び、その観音が当地に祀られたことから姉屋の地名となりました。なお他の一つ観音毘沙門不動勝軍地蔵は東堂山に、もう一つは入水に祀られています。
           (郡山市田村町田母神字姉屋)

 田村麻呂が守山(郡山市田村町守山字山中)の山中(さんちゅう)から三春の山中(さんちゅう・地名)に行く途中、家来の一人が逃亡して上石に隠れました。彼は見つかるのを恐れて、この地を山中(やまなか)と言ったことから、この地名になりました。
            (郡山市中田町上石字山中)

 田村麻呂が木の枝を切り逆さに植えたことから逆木(ざざらぎ)という地名となりました。
            (郡山市中田町上石字逆木)

 田村麻呂が通ったとき他の地の樹木は枯れていたのに、この地の木の芽が青々と吹き出ていたので木目沢の地名になりました。
   。          (郡山市中田町木目沢)

 田村麻呂は筏の橋を渡って当地を通りました。この橋は完全なものではなく、大きな柳の古木が横たえて橋の代わりとしたもので、その上を人馬が通行していました。田村麻呂が通ったときその橋から青々と柳の芽が出ていたので珍しく思い、その名を聞いたところ「橋に名がない」と言うので、田村麻呂は柳橋(郡山市中田町)と命名しました。
 田村麻呂がここに陣小屋を建て、吉相の字、万才光内に置き換えました。    (郡山市西田町丹井田字万才光内)                       

 田村麻呂がこの地に館を築いたことから小屋舘と言われるようになりました。    (郡山市西田町板橋字小屋舘)

 田村麻呂は敵の様子が分からず、高柴山(田村市船引町)に登り東を眺めました。すると大多鬼丸がいる大滝根山が見えたので愛馬が勇み立って、この大石に蹄の跡を残しました。またこの石の上から田村麻呂が強弓で矢を射ると猫内の松に突き刺さりました。これを矢立松といいます。
   (郡山の伝説・郡山市教育委員会 昭和六一年)

 東堂山(旧・宿借山)は田村麻呂が宿陣した所と言われている寺です。
               (田村郡小野町飯豊)




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  • 大同二年 1

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  • 田村麻呂 その実像 2

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  • 田村麻呂~その実像 1

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