ヘルプ

<< 小字 内裏 のページ検索結果にもどる

このページでは http://shiga-bunkazai.jp/download/kyoshitsu/k214.pdf をHTMLに変換して表示しています。
検索対象となった右のキーワードがハイライト表示されています:小字 内裏

変換前のファイルはこちらから確認できます。

※Netscape4.0と4.7では正しく表示されない場合があります。ご了承ください。

※HTMLバージョンとして表示する際、レイアウトが崩れたり、文字が読めなくなる場合があります。ご了承ください。

Yahoo! JAPANはページ内のコンテンツとの関連はありません。

Untitled

Page 1
滋賀文化財教室シリーズ [214]
近江大津宮錦織遺跡-発騙調査最新情報 -
大津市歷史博物館
館長 松浦俊和
内裏正殿復原図(大上直樹氏作図)
はじめに
大津市錦織一丁目の住宅街の一角から、大
津宮に関わる大型の掘立柱建物跡が初めて発
見されたのが昭和49年(1974)。今年(平
成16年)で、ちょうど30年になります。こ
の間、滋賀県教育委員会や大津市教育委員会
が錦織地区や、その南の皇子が丘地区で継続
的に発掘調査を行い、いまでは大津宮の中心
部分の建物配置が復原できるまでになってき
ました。そこには、大阪市の上町台地に造ら
れた前期難波宮(大化改新後に遷都が行われ
た難波長柄豊碕宮と考えられている)に似た
建物配置をもった空間が広がっていたようで
す。しかし、大津宮にはまだまだ判らないこ
とが数多くあります。そこで、ここ数年の発
掘調査で明らかになった新知見を加えた、こ
れまでの発掘調査成果と、これからの課題を
見ていくことにしましょう。
なにわながらとよさきのみや)
大津宮にはどのような建物があったのか
大津宮が詳しく載る史料としては、『日本
書紀』があげられます。天智6年(667) 3
月、近江に都を遷し、壬申の乱があった天武
元年(672) 7月までの5年半余りの間に、
宮の状況がある程度理解できる記述がいくつ
かあり、それを見ていくと、大津宮には、?
内裏」、?「酒豪」、3「大蔵」、「宮門」、
?「殿」、?「漏洩」、?「西小殿」、Ⓡ「内
裏佛殿」、9「内裏西殿」、「大蔵省第三倉」、
の「大炊」、?「大殿」といった施設や建物
があったようです。(?~1?のふりがなは日
本古典文学大系『日本書紀<下>』-岩波書
店による)
これを見ると、大津宮には、まず、天皇が
政務を執り、日常生活の場となる「内裏」が
あり、その中に「西殿」「佛殿」といった建
物が配置されていたことがわかります。おそ
らく「殿」・「大殿」も、内裏にあったとは書
かれていないが、前後の文章から内裏の中心
建物と考えて間違いなく、「西小殿」も「内
裏西殿」との関連から、内裏にあった建物と
見てよいでしょう。すると、「内裏」には、「殿」
や「大殿」と呼ぶ建物を中心に、「西殿」や
「西小殿」「佛殿」といった建物が配置されて
いたことになります。
次に注目したいのが「宮門」です。宮門(南
門ともいう)については、『日本書紀』の推
古16年(608)8月や同18年10月の外国使
節が小墾田宮を訪れた記事、また同12年9
月の小墾田宮へ官人が出仕する際の礼法を改
めた記事、更には持統朝の飛鳥浄御原宮に見
える記事などから、朝堂の南に開く門とする
解釈が一般的になっています。先に紹介した
大津宮の「宮門」も、これと同じものと考え
おはりだのみ
あらかに
みこと
ILOEDA 20
II
ELOED
おおくらのつかさのあつにあたるくら
きよみはらのみや
「おほひのつかさ
「おはとの

Page 2
これまでに明らかになった建物配置
昭和49年暮れの発見以来、現在までに
20カ所近くから、宮に関連する遺構が確認
されています。いずれも錦織一・二丁目、皇
子が丘一丁目に集中しており、遺構の広がり
は最大に見積もって東西400m×南北450m
程度だろうと考えています。おそらく、この
範囲の中に、先に見た「内裏」と「朝堂院」
からなる宮の中枢部分及び役所などが配置さ
れていたのでしょう。
個々の遺構を見ていくと、まず、昭和49
年発見の回廊が付く門とする東西棟建物(推
定「内裏南門」で、東西7間×南北2間の規
模を想定)、その北約80mに位置する南付き
東西棟建物(推定「内裏正殿」)、さらにそ
の北約70mで見つかった南付き東西棟建物
図1 大津宮中枢部推定復原図
(「内裏正殿」よりやや規模が小さい。以後、「大
(林博通氏作図)
型建物II」と呼ぶ)の3棟が建物の中軸線を
同じくして南北に並ぶことから、周囲の遺構
られ、内裏の南に「朝堂」(官人たちが政務 との対比で、宮の中枢建物と位置付けていま
を行う朝堂院)が広がっていたこともわかり す。
ます。大津宮も、宮門を入った北側に朝堂院 また、「内裏南門」を入った東西両側に、
が広がり、その北に内裏があるという基本的 一辺37m前後の方形区画が存在することも
な構成を取っていたようです。
明らかになっています。同様の区画をもつ前
また、「大蔵(省)」「大蔵省第三倉」「大炊」「漏 期難波宮では、「八角殿」と呼ぶ八角形の特
泡」といった役所や各種施設の存在を示す記 殊な建物があり、大津宮でも、同区画内に何
載があり、「内裏」に隣接してこれらの施設 らかの施設が建っていたと考えているのです
も建っていたのでしょう。
が、まだ見つかっていません。さらに、「内
この他にも、わずかだが、大津宮の施設や 裏南門」と「内裏正殿」との間に広がる空間
建物のことを書いた史料があります。例えば、 にも、いまのところ建物は見つかっていませ
天平勝宝3年(751)に成立した漢詩集の『 ん。ただ、「内裏正殿」は、周囲を塀などで
懐風藻』には「序序」、藤原鎌足の伝記(『鎌 区画した空間に存在する建物として位置付け
足伝』、また『大織冠伝』ともいう)には「濱樓」 られていたようで、すぐ北の「大型建物I?」
「私第」「淡海之第」などが見え、宮の周辺にとともに、宮の中心建物と考えられている
学校(「廃序」)や藤原鎌足の邸宅(「私第」「淡 『日本書紀』記載の「殿」や「大殿」との関
海之第」)、湖畔には天皇が皇族や群臣たちと わりが注目される建物です。
宴を催した楼閣などが建っていたこともわか 次に、「内裏南門」の南側、すなわち「朝堂院」
ります。これらのことから判断して、大津宮 にあたる空間部分では、のちの藤原宮や平城
には、天皇が政務を執るのに必要な諸施設は 宮に見られるように、東西に数棟ずつの建物
概ね揃っていたと考えてよいでしょう。
を配置するのが一般的なのですが、大津宮に
ちょうどうい
ほっかくでん
てんびょうしょうほう

Page 3
このような建物群があったのかは確認できて
いません。わずかに、南北棟建物跡が1棟(位
置から見て朝堂院西第一堂に相当)見つかっ
ているだけです。また、この南には「宮門」
と呼ばれた朝堂院に入る門の立地が想定され
るのですが、その位置もまだ未確定です。
このような発掘調査結果をもとに、建物配
置を復原したのが図1です。
最新の発掘調査成果
ここ数年、大津宮に関する新しい遺構の発
見はなかったのですが、平成13~15年度に
かけて、「大型建物跡II」の北東側一帯で3h
所の発掘調査が続けて行われ、大津宮の範囲
を考える上での大きな成果がありました。
年度の発掘調査で、大津宮に関連する東西棟
の掘立柱建物跡(東西2間以上×南北2間)
や南北方向の塀跡(目隠し塀か)が確認され
ただけでなく、両地点の間にかなりの高低差
があることも判りました。両者で正反対の結
果が得られたのです。しかも、両者の間を流
れる東西方向の小さな水路を境にして、北側
小字「鳥居川」、南側が小字「王流」とい
うように小字も明確に異なっています。
このような結果から判断して、大津宮の内
裏の北限を、A・B地点とC地点の間に設定し
ました。これにより、「内裏」の規模は南北
約240mとなります。
に ただ、問題が少し残っています。それは、
今回の調査地点西側のD地点で行った発掘調
査で、予想された内裏の北を限る遺構が見つ
からなかったのです(大津宮に関わる遺構は
倉と見られる建物跡が南端部分から見つかっ
ただけ)。ただ、同地点は第二次世界大戦直
後に変電所が造られたといわれており、その
C地点で見つかった建物跡
(大津市教育委員会提供)
A. 平成13年度調査
日、平成14年度調査
C. 平成15年度調査
D. 昭和52・58年度
「大型建物II」の北側一帯では、これまで
倉と見られる建物跡をはじめ、小規模な掘立
柱建物跡が数棟見つかっているのですが、建
物配置を復原するところまでは至っていませ
んでした。このような中で、3カ所の発掘調
査が行われたのです(図2)。
まず、柳川沿いに位置する2ヵ所について
は、平成13年度にA地点、同14年度にB地点
の発掘調査が行われ、いずれも大津宮の時期
の遺構は確認できませんでした(大津宮前後
の古墳時代や奈良時代の遺構は見つかってい
る)。さらに、旧地形が東に向かって急に落
ち込んでいくことも明らかになっています。
一方、すぐ南に位置するC地点では、平成15
図2 平成13~15年度発掘調査地点

Page 4
D地点 TOGA地点
地点王魂
大将軍
工事により遺構面が壊されてしまった可能性
が強く、これが原因で北限を示す遺構が検出
できなかったと考えられています。
いずれにしても少し問題点は残るものの、
C地点の北側に大津宮の内裏の北限(現時点
では、これを宮の北限とも考えている)を設
定してよいだろうと見ています。
御所ノ内」
御所大平)」
コロ五反田
月10日
をごしょだいら
これからの課題-まとめにかえて-
昭和49年暮れの発見以来、30年、この間
に数多くの発掘調査が行われ、宮の中枢部の
建物配置及び内裏北限が明らかになってきま
した。しかし、まだまだ解明しなければなら
図3 大津宮遺構検出地点及び小字
ない問題が山積みしています。その中で最大
の問題が、宮の規模の確定です。
このことから、E地点の東西溝が立地するラ
そこで、見直してみたいものに「小字名」 インを宮の南限とし、2つの小字のいずれか
があります。図3は、大津宮に関わる遺構が に朝堂院に入る「宮門」を想定することは可
見つかった地点と小字の関係を示したもので、 能だろうと思います。
この図から、大津宮の遺構が発見された地点 ただ、先の地点に「宮門」を設定すると、「朝
が、1ヵ所(E地点)を除いて「大将軍」「王流」 堂院」の規模が南北約190mと、かなり狭く
「御所大平」「御所ノ内」「南川」に集中して なり、特異な形をした宮の構造となります。
いることが判ります。E地点も「南川」に隣 これからは、「朝堂院」の形態の解明が大津
接する地点にあり、北側の遺構群と一緒に考 宮の規模及び建物配置を確定する大きな鍵に
えてよいでしょう。すると、大津宮中枢部の なるでしょう。そして、その解明が進めば、
建物が立地する範囲は、左右対称の建物配置 大津宮の全体像がかなり鮮明になると確信し
から、「向海道」を含めた6つの小字の区域 ています。
が想定できそうです。ここで、少し気になる <参考文献〉
のが、その南に位置する「五反田」と「小路? 『錦織遺跡発掘調査概要報告書』-大津市
海道」という小字です。
埋蔵文化財調査報告書(36) - 大津市教育
なぜ、気になるかというと、この2つ以外
委員会2004年
小字は、県道(これが大津宮中枢部の建物 ?『大津市埋蔵文化財調査年報-平成13年
配置の中軸線と考えられている)を境にして 一度版-』大津市教育委員会 2002年
東と西にきれいに分かれているのですが、こ ?『大津市埋蔵文化財調査年報-平成14年
こだけ県道をまたぐ形で細長く存在していま
度版-』大津市教育委員会 2003年
す。そして、これを境にして、北側に大津宮 ?林博通『大津京跡の研究』 思文閣出版
中枢部の建物が集中し、南側からは宮に関連
2001年
する建物がまったく見つかっていません。さ
滋賀文化財教室シリーズ No.214号
らに、E地点からは、東西に延びる溝跡(幅
発行年月日 2005年3月6日
約1.3m)が見つかっており、先にあげた2 編集・発行財団法人滋賀県文化財保護協会
〒520-2122 大津市瀬田南大萱町1732-2
つの小字のちょうど真西にあたっています。
TEL(077)548-9780 FAX(077)543-1525