人間・植物関係学の原点
人間・植物関係学の原点
進士五十八
東京農業大学地域環境科学部 156-0054 世田谷区桜丘1-1-1
The Origin of People-Plant Relationships in Various Disciplines
Isoya SHINJI
Tokyo University of Agriculture, Sakuragaoka, Setagaya-ku, Tokyo 156-0054
1. 人間と自然
200年近くも前のアメリカでは, ‘フロンティア”とい
う言葉が盛んに使われていた。 優れた文化や文明を持つ
ヨーロッパからの移民者にとって, アメリカでは大自然
こそが唯一誇れるものであった。 アメリカのナショナル
パークは、このアメリカ人の自然観~ありのままの大自
然を認め, 手を入れずそのまま残す, あるいは利用する
〜によって生まれた。 アメリカ人でなくとも,人間は大
自然の前に立つと大きなインスピレーションを受ける。
それが,人間と自然の関係の基本なのである。
グリーン(green)という言葉は, アーリアン語のガ
ーラ(ghra:「成長する」)という言葉に由来する。成
長するものとして,草・樹木・花卉・ 作物などの植物,
植物群が寄りそった植物社会=植生, 植物の葉や花や実
を求めて集まる昆虫, 野鳥などの動物といった全ての生
物があり, 生物を生かす自然として土・水・大気・太陽
などがある。 これらに代表されるように、緑の第一の意
義は「生命性」 にある (進士, 1997)。
以上のような自然や緑の中で、人間は自らの生存を守
るために樹上で生活し、 樹木でシェルターや囲繞空間を
構成した。安全を確保した上で, 囲みの中に食用として
果樹を栽培し、生活の基盤をつくったのである。 その間
の事情は,‘Paradise' (=pairi 「囲み」 +diz 「形づくる」)
や,‘Garden'(=gan「囲み・防衛」+eden 「楽しみ」),
ドイツ語の‘Behaglich' (= 「快適と感じる」, hag 「生垣」
に由来), 漢字の‘園’(果樹を囲んでいる)などから推
察できる(進士, 1988)。 こうして人間は, 自然を生活
に取り込みながら, 生きていくための快適な環境条件を
整えていったのである。 近年の中国でも「生產的緑化」
が叫ばれ、公園の下草, グランドカバーとして漢方薬が
栽培された。また, 公園や住宅地には果樹を植え,パパ
イヤの並木が出現したほどである。
「野生の思考」(Levi-Strauss, 1962) にあるように,原
始の人間は自分たちが生きていくために必要な食料, 薬,
染料などに使える植物に名前を付けた。 ここに原初的な
人間と自然の関係がみられる。一種類で幾つもの名を持
2001年9月30日 人間・植物関係学会2001年大会 (設立大会)
での基調講演をまとめたものである.
人間・植物関係学会雑誌 (JJSPPR) 1(2):2-4, 2002. 総説.
つものも名前のない植物もあったわけであるが,人間は
生存のために有用なものを自然界から見つけ出し,名前
を付け,採取,栽培,増殖した。 その過程で,自然を知
り,学習し,愛玩し,鑑賞し,親しむようになった。
以上のように, 人間は生きていく上で常に自然と関わ
り,必要に応じて利用してきた。 この知識や関わりが時
間と共に深化し, 文化のレベルまで発展したのである。
2.緑の文化
‘樹藝'(arboriculture)は,育樹や応用樹木学(applied
dendrology)の別名と通常は説明されるが,文字通り
「樹木の文化」「緑の文化」であると理解できる。 先に,
緑の第一の意味が 「生命性」であることを述べたが,第
二の意義は,この「文化性」「人間との関係性」 であろ
う(進士, 1997)。 上原敬二 (1978) は樹藝の定義を次
のように述べている。 これは、私が旧字の “藝”にこだ
わる理由でもある。
「…藝は刈と同系の言葉, メは鋏の交叉を示す。草木
が自然のままのび放題となっては困る。 そこで, 刈込み,
整姿さえ行ない, 植物に手を加え, 人の要求する形につ
くり出すこと。 自然の素材に人工の手を加えて調節する
ことを樹藝という。」
自然に手を加えることが ‘culture' = 「文化・耕す」)
であり,‘cultivate' (= 「耕す」, 「栽培する」, 「養成する」,
「洗練する」,「鍛錬する」, 「教化する」)である。正に,樹
藝は「緑の文化」 である。 絶えまない人間と樹木の必然的
コミュニケーションの結果, 互いに役立ち、感じあう「緑
との関係」がわかり,また育つことになる (進士, 1978)。
果樹が剪定されて多くの実をつけるように, ‘樹藝’
とは人間の役に立つように絶えず人間が手を入れること
である。‘農藝' (agriculture), '園藝' (horticulture),
‘工藝', みな藝という字がついているが,これは正に
「関係」を示している。 ここで言う「関係」とは,緑や
花を手入れし触れ親しむことや, ありのままの自然では
なく,人間の思い, 希望, ニーズに応えるべく加工する
ことである。
日本では,室町時代では「籠み木」,江戸時代には
「作り木」と呼ばれる刈込物が盛んであった。 これらは
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日本樹藝の象徴といってもよい。 盆栽などが典型的であ
り,今でいう「仕立てる」という関係があった。 植物の
特徴を十分踏まえた上で,それに人間の思いをのせてア
レンジする。 日本の刈り込みが山や波に形作るのに対し
て,西洋ではトピアリーといって鳥や獣, 人の顔の形に
造形する。加工や変形の度合いこそ国によってさまざま
であるが,いずれも樹木に手を入れることで自然と付き
合ってきた。このように,人間が何らかの形で自然を人
間側に引き寄せて文化化してきたのは,古今東西を越え
た事実である ( 進士, 1987)。
建築評論家の川添登(1986)によると, 日本人の国民
的関心事は 「祭り」 と 「園芸」だという。 花というのは
国民的な趣味,文化なのである。 園藝趣味は, 植木,庭
木,盆栽, 生花など日常的なふれあいのあるものであっ
た。この点において,「自然」的であるよりは 「緑」的
であるといえる。 自然に対する態度の形が文化だとする
と、正に「緑の生活文化」 を日本文化の特徴としてあげ
ることができるであろう。この延長線上に「園芸福祉」
がある。 園芸活動を通して福祉を実現すること。 つまり,
豊かな自然や緑の環境の中で如何に過ごすか, それを通
じて皆が如何に幸せになるかということである。福祉が
園芸を中心に普及していくことは,これから時代の大き
な潮流になるべきである。
植木,庭木,造園樹木,緑化樹木・・・これらに共通する
点は,人間の生活にとりこまれた(=生活化した)樹木
であることと、人々の感情を移入し豊かな心を投影させ
る(=文化化した) 樹木であることである。 生活化,文
化化した樹木が日本の植木や庭木の本質であり、だから
こそ我々はこれを緑と呼ぶのである。 「日本大歳時記」
(講談社,1984)の季語分析を試みたところ季語全体の
35%が植物系の季語であった(進士 藤本, 1986)。あら
ゆる生活場面が詠まれた俳句の4割近くが植物系季語で
描写されているということは,日本人にとって緑の存在
がいかに大きかったかを物語っている。
人間にとって, 生産の基盤をなすのは自然である。 自
然が基盤を支えていればこそ, 人間を含む生物は生きて
いける。樹木という特定の生物自然にとどまらず,大自
然も人間と無関係ではなく、人間にとっては不可欠の存
在である。多様な自然について, わかりやすくするため
に① 野生, ② 家畜 ③ ペットの3段階を提案する(進
士, 1987)。これらはそれぞれ, ①大自然, ②中自然, ③
小自然ということもできるであろう。 人間は, その時代
およびその社会において自分たちが望むライフスタイル
に都合の良い自然をとり込んできた。 ①扱いにくい大自
然に対しては,次第にその性質を見極め、人間が生きる
ために必要な資源として利用できるよう改造し(→②中
自然), 遂には掌中に入れて鑑賞 愛玩するよう (→③
小自然) になった。 大自然の規模や迫力は,人間に大き
なインスピレーションを与える。 しかし, それは年に一
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度,月に一度行けば十分なものであり、自然と人間との
関係は薄い (① 野生)。 その大自然に人間はさまざまな
働きかけを繰り返した。 現在の国土に広がる風景は,大
自然の摂理を踏まえつつ, 人間が自然を改造し, 人間に
ふさわしい環境につくり直した結果である。 これらの風
景は,土や緑が基調になっており,適度に人工の風景要
素が点在する。 元の大自然に対して, 田園や里山の風景
は二次自然,馴化自然ともいえる。また, 庭木や公園,
並木,緑地などの都市の緑も, 人間の都合に合わせて植
えられた人工的自然である (② 家畜)。 さらには,室内
に置く鉢植えや花、 盆栽などの植物は,人間が面倒を見
ないと枯れてしまうような自然である (③ペット)。そ
の脆弱さ故に、人間と濃密な関係を持つのが,ペット的
室内自然の特徴といえる。
大自然-中自然-小自然は, 人間と自然の関係性を象徴
的に説明したものであるが, 「遠くの自然」 と 「身近な
自然」を区別してその在り方を論じ、それら自然の性格
別に関係の仕方を工夫することは、自然の価値を生かす
上で重要である。 ①大自然では原生林や植生自然度の高
さや種の多様性が評価されるべきであるし, ②中自然で
は農業や地場産業,いわば土地自然に基盤を置く生産行
為と不可分の景観として健全に,しかも安定的に維持さ
れているかどうかが評価されるべきである。 また ③小
自然では人々との交流交歓の深さが評価されるべきであ
る。 身近な自然と中小自然, これら全てに相当する言
葉として“緑の文化” が,大自然として “地球の緑”が
あると理解したい。 人間の生活にとって, 重要かつ不可
分の緑としては,ペットとしての日常的交歓性(緑との
コミュニケーション) と, 農作物 家畜に象徴される人
間史的自然馴化の深みや重み (インナーランドスケー
プ・シンボル), いわば「農」の原風景性を指摘したい。
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3.都市社会と緑
第三の緑の意義は 「多様性」にある(進士, 1997)。単
体の植物とみるか、集団の植生,さらには広義の自然と
みるかは別として、 緑には実に多種多彩な意味あいが包
含されている。 気候や場所に応じて何千種類も存在し,
草木,常緑,落葉, 針葉, 広葉といった分類もでき,こ
れでイメージも異なる。 多様な植物を使って育まれた文
化も,地方毎に実に多様であり,それがその地方の魅力
となっている。日本が北から南から, 海から山から,実
に多様な特徴をもってそれぞれのまちや地域の魅力を持
っているのは、まさに緑の多様性のためといえる。 緑の
多様性が地域の多様性の基盤なのである。
日本では,昭和40年頃から盛んに都市緑化が求めら
れるようになった。環境が悪くても育つ木が緑化樹木と
いわれたように,大量生産・大量供給が可能で日常生活
に災いをなさないなど, 都市的制約の中で成り立つ条件
が考えられた。また,緑化樹木のもう一つの条件は,早く
成長することであった。 促成緑化という言葉ができたのは
この頃である。 春には鮮やかな緑, 夏には濃い緑, 秋には
黄葉や紅葉,そして冬には落葉というように、戦前の街路
樹の基本であった落葉樹は、季節感の象徴であった。しか
し,緑量を問題にするようになってからは, 街路樹は常緑
樹化し, 都市の季節感がなくなってしまった。
·
‘ランドスケープ (landscape) というのは,ランド・土
地と,スケープ・端から端までということである。 土
地自然性,全体 総合性が大事だということだ。現実
は逆で、近代科学は機能毎に全てを分類して研究を専門
化するあまり、 「木を見て森を見ず」 になり過ぎた。 だか
らこそ人と自然との関係を根本から考えることが重要な
のである。 前述の中国の生産的緑化という考え方は, 緑
化がただ「緑に化かす」だけではないことを教えてくれ
る。地域性や個性さらには生産的緑化のように,人間生
存との根本関係が実感できる緑化や、 原風景性を感じさ
せる果樹の活用など、画一的な都市の中だからこそ本気
で考えるときに来ている (進士, 1987)。 人間生存・生活の
原点を考えながら緑化を見直す。 人間が生きるために必
要なものとして緑を見るということである。 その主たる
ものは農業である。 日本農業は生産性の低さをいわれて
きた。その解決策として農政は、日本の地形条件を無視
して大規模化し, 生物である植物を育てるという大前提
を忘れて工業化した。 しかし, 工業の生産性と農業の生
産性は本質的に違うのである。 農業は動物や植物などの
自然の生体と生態を前提とする産業であり、無生物 (死
物)を加工する工業とは違う。そういう農業が国土の殆
どを覆う二次自然, 農業生態系を保全しているのである。
4. 関係から見た緑の環境デザイン
地域らしさのあるまちづくりの振興は,これからの脱
工業化時代のテーマである。 工業製品の原理である大量
生産・大量流通・大量消費によるコストダウンによっ
て,日本の都市生活や都市景観は人工化と画一化を推し
進められ, 人間の生活環境や個人の人間性までも画一化
の中に押し込めようとしている。 ここで,一昔前まで田
舎で行われてきた農民による環境デザインのあり方を再
評価し,これを「ルーラル・ランドスケープデザイン」
という言葉で提唱したい (進士ら, 1994)。 農村的景観デ
ザイン手法の意義を再発見し、再評価し, その手法によ
って地域らしさのある都市づくりを復活させたいのであ
る。屋敷林,玉石積,石垣,生垣, 菜園など昔の農民が
デザインした環境は、自然地形や地場産業を活かしたも
のであった。 地形も,植生も,石材や工法も、技術も,
全て地方のあるいは地域独自のもので構成されていた。
それが農村の魅力であったし、地方都市の魅力であった
のである。この多様な緑のまちづくりを, 全国各地の土
地柄を反映して進めることが重要である。
‘Landscape' の語源である ‘landskip' には, 「その土
地の中で最もその土地らしいということ」の意味がある。
長野県飯田市のリンゴ並木は、子供たちによって育まれ
てきたことで有名になり,教科書にも紹介された。諏訪
湖畔のマルメロの並木、山梨県白根町のモモなど,その
まちを代表する果実の存在価値は広く知られている。果
実のなる風景は, 単なる彩りだけではなく,「生きられ
る景観」 「生きやすいまち」 を感じさせ,地域景観の重
要な骨格になる。緑のまちづくりのスタートでもありゴ
ールでもあるのは,こうして人と緑が,何らかの必然的
な関係を持続することである ( 進士, 1997)。
江戸時代,江戸や大阪、京都の近郊, 大都市の周辺に
はまとまった緑, 植物のランドスケープが広がっていた。
ところが,現在ではそれが非常に少ない。 曽我梅林,佐
賀竹林,白神山地のブナ林, 屋久島の杉といった緑の名
所,館林のツツジ, 横浜や平塚のバラ, 房総のナノハナ
といった花の名所がもっとできてほしい。 日本中が緑と
花の名所で一杯になれば, 日本はガーデン・アイランド
になるはずである。 二次自然的, 農村的, 田園的景観を
維持しながら,都市の中のペット的自然ではなく近寄り
難い大自然でもない, 大都市の周辺に配置されている文
化的自然を再発見するべきである。
緑は,今の社会と時代が問題にしている環境や都市は
もちろん,教育も景観も福祉も文化も歴史も全ての事柄
と関係している。この現代の都市社会は,これから滅亡
に向かうのだろうか。 それとも, 再構築されてより豊か
な人間が生きる環境として再生するのだろうか。再生さ
せるためには, 木を見て森を見て,その全体を包む都
市社会と, 現代の人間を見て、大きくものを捉えねばな
らない。 視野を広げ, 人間と緑と都市社会の 「よりよい
関係」を追求し続けることが求められる。
文献
Claude Levi-Strauss. 1962. La Pensee Sauvage. Pris:Libraire
Plon.
川添登・菊池勇夫. 1986. 植木の里. p.208. ドメス出版
水原秋櫻子 加藤楸邨, 山本健吉 (監修), 1984. 日本大歲
時記 講談社.
進士五十八. 1987. 緑のまちづくり学. p.382. 学芸出版社.
進士五十八, 1988. 人が求める緑の変遷―緑の社会史ー.
グリーン・エージ10月号; 13-18.
進士五十八, 1997. まちづくりの基本-緑と人のいい関係.
地域づくり 97年4月号; 2-5.
進士五十八· 藤本春雄. 1986. 日本人の季節感と日本庭園
についての研究, 特に歳時記の季節分析にみる四季
植物と庭園植栽樹種分析結果の比較考察, 日本建築
学会関東支部昭和61年度研究報告集 (57);301-304.
進士五十八·鈴木誠・一場博幸 (編) 1994. ルーラル・ラン
ドスケープ・デザインの手法. p.202. 学芸出版社.
上原敬二, 1978. 造園大辞典. p.258. 加島書店.
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