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憲法
学問の自由

学問の自由

 憲法23条は,「学問の自由は,これを保障する」と定める。学問の自由を保障する規定は,明治憲法にはなく,また,諸外国の憲法においても,学問の自由を独自の条項で保障する例は多くはない。しかし明治憲法時代に,1933年の滝川事件(京大の滝川幸辰教授の刑法学説があまりにも自由主義的であるという理由で休職を命じられ,それに教授団が職を辞して抗議し抵抗した事件)や,35年の天皇機関説事件などのように,学問の自由ないしは学説の内容が,直接に国家権力によって侵害された歴史を踏まえて,とくに規定されたものである。

 学問の自由の保障は,個人の人権としての学問の自由のみならず,とくに大学における学問の自由を保障することを趣旨としたものであり,それを担保するための「大学の自治」の保障をも含んでいる。

1 学問の自由の内容

 学問の自由の内容としては,学問研究の自由,研究発表の自由,教授の自由の3つのものがある。

 学問の自由の中心は,真理の発見・探究を目的とする研究の自由である。それは,内面的精神活動の自由であり,思想の自由の一部を構成する。また,研究の結果を発表することができないならば,研究自体が無意味に帰するので,学問の自由は,当然に研究発表の自由を含む。研究発表の自由は,外面的精神活動の自由である表現の自由の一部であるが,憲法23条によっても保障されていると解すべきである。

 教授(教育)の自由については,大きな議論がある。従来の通説・判例(東大ポポロ事件最高裁判決)は,教授の自由を,大学その他の高等学術研究教育機関における教授にのみ認め,小・中学校と高等学校の教師には認められないとしてきた。この考えは,学問の自由が,伝統的に,とくにヨーロッパ大陸諸国で大学の自由を中心として発展してきたという沿革を重視したものと言える。しかし,今日においては,初等中等教育機関においても教育の自由が認められるべきであるという見解が支配的となっている。

 もっとも,初等中等教育機関における教育の自由が肯定されると,教育内容・教育方法等について国が画一的な基準を設定し,あるいは,教科書検定を行うことが教育の自由を侵害するものではないかが問われることとなる。この問題は,教科書検定の合憲性に関するいわゆる教科書裁判(家永訴訟),文部省の実施した全国的な学力テストの適法性が争われた学テ事件においてとくに議論された。家永訴訟(第二次訴訟)一審判決(東京地判昭45.7.17)は,憲法23条を根拠として,「下級教育機関における教師についても,基本的には,教育の自由は否定されない」という判断を示し,注目された。その後,旭川学テ事件で最高裁も,普通教育においても,「一定の範囲における教授の自由が保障される」ことを認めた。しかし,教育の機会均等と全国的な教育水準を確保する要請などがあるから,「完全な教授の自由を認めることは,とうてい許されない」と判示した(最大判昭51.5.21)。

2 学問の自由の保障の意味

(1) 憲法23条は,まず第一に,国家権力が,学問研究,研究発表,学説内容などの学問的活動とその成果について,それを弾圧し,あるいは禁止することは許されないことを意味する。とくに学問研究は,ことの性質上外部からの権力・権威によって干渉されるべき問題ではなく,自由な立場での研究が要請される。時の政府の政策に適合しないからといって,戦前の天皇機関説事件の場合のように,学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならない。「学問研究を使命とする人や施設による研究は,真理探求のためのものであるとの推定が働く」と解すべきであろう。

(2) 第二に,憲法23条は,学問の自由の実質的裏づけとして,教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め,その身分を保障することを意味する。すなわち,教育内容のみならず,教育行政もまた政治的干渉から保護されなければならない。この意味において,教育の自主・独立について定める教育基本法(10条参照)はとくに重要な意味をもつ。

先端科学技術と研究の自由
 もっとも,近年における先端科学技術の研究がもたらす重大な脅威・危険(たとえば,遺伝子の組み換え実験などの遺伝子技術や体外受精・臓器移植などの医療技術の研究の進展による生命・健康に対する危害など,人間の尊厳を根底からゆるがす問題)に対処するためには,今までのように,研究の自由を思想の自由と同質のものという側面だけで捉えることがきわめて難しくなってきた。そこで,研究者や研究機関の自制に委ねるだけでは足りず,研究の自由と対立する人権もしくは重要な法的利益(プライバシーの権利や生命・健康に対する権利など)を保護するのに不可欠な,必要最小限度の規律を法律によって課すことも,許されるのではないのか,という意見が有力になっている。

3 大学の自治

 学問研究の自主性の要請は,とくに大学について,「大学の自治」を認めることになる。大学の自治の観念は,ヨーロッパ中世以来の伝統に由来し,大学における研究教育の自由を十分に保障するために,大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定に任せ,大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。それは,学問の自由の保障の中に当然のコロラリーとして含まれており,いわゆる「制度的保障」の1つと言うこともできる。

 大学の自治の内容としてとくに重要なものは,学長・教授その他の研究者の人事の自治と,施設・学生の管理の自治の2つである。ほかに,近時,予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力である。

(一)人事の自治
 学長・教授その他の研究者の人事は,大学の自主的判断に基づいてなされなければならない。政府ないし文部省による大学の人事への干渉は許されない。1962年(昭和37年)に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は,文部大臣による国立大学の学長の選任・監督権を強化するための法制化をはかるものであったが,確立された大学自治の慣行を否定するものとして,大学側の強い批判を受け挫折した。

(二)施設・学生の管理の自治
 大学の施設および学生の管理もまた,大学の自主的判断に基づいてなされなければならない。この点に関してとくに問題となるのが,大学の自治と警察権との関係である。

 警察権が大学内部の問題に関与する場合はさまざまである。まず,犯罪捜査のために大学構内に立ち入る場合がある。大学といえども治外法権の場ではないので,正規の令状に基づく捜査を大学が拒否できないこと,むしろ必要と事情に応じて積極的に協力することは,言うまでもない。しかし,捜査に名をかりて警備公安活動が行われるおそれなしとしないので,捜査は大学関係者の立ち会いの下で行われるべきである。次に,大学構内で予想外の不法行為が発生し,そのためにやむを得ず大学が警察力の援助を求める場合がある。この場合には,原則として,警察力を学内に出動させるかどうかの判断は大学側の責任ある決断によるべきである。したがって,警察が独自の判断に基づいて大学内へ入構することは,大学の自治の保障の趣旨に反するとみるべきであろう。

 最も問題となるのが,警備公安活動のために警察官が大学構内に立ち入る場合である。警備公安活動とは,「公共の安寧秩序を保持するため,犯罪の予防及び鎮圧に備えて各種の情報を収集・調査する警察活動」である。これは,将来起こるかも知れない犯罪の危険を見越して行われる警察活動であるから,治安維持の名目で自由な学問研究が阻害されるおそれはきわめて大きい。したがって,警備活動のために警察官が大学の了解なしに学内に立ち入ることは,原則として許されないと解される。この点に関して,東大ボボロ事件の最高裁判決が,警察官による大学構内の調査活動が大学の自治にとっていかに危険であるかを不問に付している点などには,批判が強い。

大学の自治と学生の位置づけ
 大学自治の担い手は,伝統的に教授その他の研究者の組織(教授会ないし評議会)と考えられてきたが,1960年代の大学紛争を契機に,学生も自治の担い手であるべきだという議論が強くなってきた。たしかに,学生をもっぱら営造物(公共のために用いる施設)の利用者として捉える考え方(東大ポポロ事件最高裁判決の立場)は妥当でないが,教授とは地位も役割も異なるので,大学における不可欠の構成員として,「大学自治の運営について要望し,批判し,あるいは反対する権利」を有する(仙台高判昭46.5.28)ものと解する説が,妥当である。

**東大ポポロ事件
 東大の学生団体「ポポロ劇団」主催の演劇発表会が東大内の教室で行われている途中で,観客の中に私服の警察官がいることを学生が発見し,警察官に対して,警察手帳の呈示を求めた際に暴行があったとして,暴力行為等処罰に関する法律違反で起訴された。警察官は警備公安担当であり,長期にわたりしばしば東大構内に立ち入り,情報収集活動を行っていた。一審判決(東京地判昭29.5.11)は,「学内の秩序がみだされるおそれのある場合でも,それが学生,教員の学問活動及び教育活動の核心に関連を有するものである限り,大学内の秩序の維持は,緊急止むを得ない場合を除いて,第一次的には大学学長の責任において,その管理の下に処理され,その自律的措置に任せられなければならない」と述べ,被告人の行為は大学の自治を守るための正当行為であるとして無罪判決を下した。二審判決(東京高判昭31.5.8)もこれを支持したが,最高裁は,ポポロ劇団の演劇発表会が,学問研究のためのものではなく,内容が当時非常に問題とされた松川事件(昭和24年8月,福島県の東北本線松川駅付近で起こった列車転覆事件。起訴された20名の労組員のうち死刑5名,無期懲役5名などの一審判決は,昭和34年の最高裁判決でくつがえされ,差房蕃の全員無罪の判決は同38年に確定した)に取材したものであったことなどから考えると,「実社会の政治的社会的活動」であり,かつ,公開の集会またはこれに準ずるものであるから,大学の自治を享有しない,と判示した(最大判昭38.5.22)。この判決は,とくに,①本件警察官の行為が長期にわたる清報収集活動の一環として行われたものであることを考慮に入れなかったこと,②学問的活動か政治的社会的活動かの区別はきわめて困難な場合が少なくないのに,大学が正規の手続を経て教室の借用を許可した判断を尊重しなかったことなど,疑問が多い。
学問の自由