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穴師坐兵主神社 桜井市穴師

 穴師坐兵主神社
(あなせにいますひょうず)
桜井市穴師1065 mapfan


鳥居 右側に秀麗な山が見える。左側は相撲神社。


交通案内
JR桜井線巻向駅、バス相撲神社口 東へ2km

祭神
中殿 兵主神 境内表示「崇神天皇の六十年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神として祀られ、天孫降臨の際の三体の鏡の一体を御神体とし、御食津神と申し上げる。」

 祭神については、御食津神・天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命・建御名方命、大己貴神の分身伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。祭神の重層化のようだ。

右社 若御魂神 境内表示「三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は匂玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられています。」また豊宇気毘売命の親の和久産巣日神とする説がある。 

左社 大兵主神 境内表示「纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られて御祀り申し上げています。御神体は剣(ほこ)で武勇の神、従って相撲の祖神となった。」八千戈命、素盞嗚命、天鈿女命とする説がある。兵主の神であり、天日槍命と見る事が出来る。
摂社 相撲神社「野見宿彌命」

由緒
 式内社である三社、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社を合祀したものである。
 かっては上下二社にわかれ、上社は弓月岳に穴師坐兵主神社があり、下社が現在地にあり穴師大兵主神社であった。

 この弓月岳は一体どの山か、竜王山、穴師山、巻向山の説がある。

地図


小川光二氏の『大和の原像』では穴師山説をだされている。
【位置関係】
箸墓古墳の前方部から後円部をつらぬく線上に穴師大兵主神社下社(現穴師坐兵主神社)が鎮座、その延長線上に穴師山がある。角度は北東22度(稲の種まきの頃)この線上に穴師山の雄岳、雌岳もそろう。
伝崇神陵から南東30度で同じように穴師山頂上が見える。冬至の日出の線。

【頂上の様子】(1973年以前)
山頂部手前に台地があり、原型を留めない小祠が石の上の台に残っていた。
山頂部の方向に葺石とおぼしき砕石状の同じ様な大きさの小石が密集していた。
山頂には二つの頂上がある。三輪山頂の真北に当たる。

【古老曰わく】
穴師の真ん中の神さんがもと祀ってあった所を「ゲシノオオダイラ」と呼ぶ。小川氏は「夏至の大平」との解釈。

千田稔氏は『鬼神の鎮魂歌』のなかで巻向山説を示されている。 
【位置関係】
穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし   (万葉一〇八七 柿本朝臣人麻呂之歌集)
あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる(万葉一〇八八 柿本朝臣人麻呂之歌集)
 痛足川は穴師川のことで現在の巻向川、この川は巻向山の頂上近くに源流がある。巻向の弓月が岳というのは巻向山のこと。
 伝崇神陵から南東30度で同じように穴師山頂上が見える。その延長上に巻向山頂上がある。やはり冬至の日出の線。

【頂上の様子】
この山の頂上から三輪山頂上を見下ろせる。
木の柱があり「萬葉集弓月ヶ嶽」が立っている。
【古老曰わく】これは大兵主神社宮司中由雄氏が記されたもの。

 平成十三年五月、神奈備も登った。
 現在は木々に囲まれて展望はきかない。また「萬葉集弓月ヶ嶽」の碑であろうが、立派な柱丈の木が倒れていて、何かが書いてありそうだが薄くなって到底読めない。 また、かって兵主神社上宮があったような神域の雰囲気は感じられなかった。西から兵主神社への道筋からも巻向山が意識に入らない。見えない。
 頂上手前に不動(瀧)寺がある。またそこから脇を登っていくと白山と呼ばれる表土が流れて脆い岩肌がむき出しの一帯がある。

白山

 要するに決定的な説はない。直木孝次郎氏なんかは、山辺の道から見えるどれかだろうと『日本古代国家の成立』の中で述べている。山の位置は、天日矛一族・兵主神奉祭氏族に関わる可能性もあり、古代国家の成立の重要なポイントと思うが、この面ではノーテンキだ。一方、千田稔氏や小川光二氏は自分の足で確認をされている。これが真実を探求する姿勢と思う。

ようこそ奈良山岳会のホームページへ:巻向山」によると
江戸時代の『大和名所図会』は竜王山説とのこと。
釜ノロ東嶺は弓月ガ岳、頂上に十市兵部少輔遠忠の城跡あり…」と。釜ノロは長岳寺の山名で、十市城跡は竜王山のこと。
『大和志料』にも「巻向山・三輪山ノ北ニアリ、峯ヲ弓月岳ト称シ長谷山二連ル」とあり、『大和名所図会』も同じ説をのせているそうだ。

『大和志料』は巻向山説に見えるが、三輪山の北にあるのは、穴師山か竜王山である。竜王山は石上神宮ゆかりの布留川の源流の一つ。

巻向山の名を持つ山が穴師山から現巻向山に変わったとも考えることができる。『神奈備』は実は現穴師山に登っていない。どうこう云う資格はないが、小川光二氏の説に引かれる。

拝殿


 小川光二氏の『大和の原像』によると、穴師上社の跡地は「ゲシノオオダイラ=夏至の大平」と呼ばれ、弓月岳頂上、上社の跡地、現下社、箸墓古墳後円部中心、前方部中心が一直線に並ぶとの事である。夏至の祭祀の日の太陽はこのラインを照らす。太陽祭祀すなわち農耕神の性格があったとされる。 当初弓月岳頂上に祀られたのは当然山の神である。山の神は春には田の神となる。巻向川の水の神である。また兵主はヒョウスベで河童に通じるのも面白い。

 弓月岳頂上の神社は、大和に築かれた王権によって祀られて、兵主神が持ち込まれたのであろう。崇神天皇陵とされる古墳からも後円部から前方部中央へ引くラインは弓月岳頂上を指している。兵主神-天日槍命-イリ王朝-邪馬台国を連想させずにはおかない。 弓月岳を越える道はテンノウ坂と呼ばれる。兵主社から竜王山、また都祁国へ行く道であった。この都祁国の南に吐山郷があり、白木と呼ばれる里に新羅の王子天日矛が新羅城を築いたとの伝承がある。都祁は柘植に通じ、近江は天日矛の後裔の息長氏の本拠地である。

 なお兵主神とは、漢の高祖が「蚩尤:シユウ」を祀って勝利を祈った事に由来する。貝塚茂樹氏は兵主神とは武器製造の鍛冶屋神としている。

 この神社の近くの畑の土は赤みを帯びており、かっては、金属が採取された可能性がある。砂鉄が発見されて、渡来系の人々や、太刀作りや鏡作りの人々がここに集うようになって、武器、軍神の性格を持っていったものである。
 穴師とは痛足であり、また掘削の穴に通ずるのである。大穴牟遅神をも想起せしめる。

 大倭本紀には、天皇始めて天降り来ましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう。鏡の一つは伊勢神宮に、一つは紀の国の国懸神宮に、残る一つの鏡と子鈴は穴師社におさめたたとある。穴師社は御食津神として天皇の朝夕の食事、日夜の護りとしたと記されている。崇神天皇の出身地との説がある。*1
 播磨の射楯兵主神社の兵主神はこの社から分遷されたものである。

兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」 
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
但馬 朝来 兵主神社
但馬 養生 更杵村兵主神社
但馬 出石 大生部兵主神社 「素戔嗚尊、保食大神」 伊福部神社も称している。青銅74
但馬 国府 久斗寸兵主神社 青銅76
但馬 城崎 兵主神社
但馬 城崎 兵主神社二座
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
但馬に多く、播磨・丹波、近江等に散財する。銅鐸の分布と一致している。また天日槍を祖とする但馬族とも無縁でないとされる。

お姿
  巻向の駅の東側にこの神社の鳥居がある。参道はゆうに2000mとなる。昔の勢いを見るようである。
 この鳥居から東の山の方向へ相当登る。まず景行天皇日代宮跡の石碑が立っている。さらに進むと、南側に相撲神社が見えてくる。土俵があり、四角には立木が柱替わりにある。

相撲神社 本殿は西向き、二上山の麓を眺める。
 

正面に穴師神社の鳥居があり、ここからは大和国中がよく見える。北側に景行天皇陵とされる古墳が大きく見える。 その向こうに箸墓古墳がある。参道は楓の木が多く、おそらく秋には見事に染まることだろう。 幽玄な雰囲気の参道である。桧、杉が多い。

本殿

お祭り

 例祭  4月8日 この日は釈迦誕生の日でもあるが、山開きの日でもある。山の神が土地に降り田の神になる日である。

摂社 タチバナ神社 ”槁”の字に見える。本殿南側。

*1 神々と天皇の間(鳥越憲三郎)朝日新聞社
青銅の神の足跡(谷川健一)小学館
日本の神々4大和(大和岩雄)白水社
大和の原像(小川光三)大和書房
鬼神への鎮魂歌(千田稔)学習研究社

大和の神々
神奈備にようこそ