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野田秀樹bot
@bot_nodahideki
野田秀樹氏の非公式botです。ー作成中
2013年12月25日 少し修正+言葉を増やしましたJoined December 2012

野田秀樹bot’s posts

小劇場という概念が何なのか、ただ小さいところで演ればいいということなのか、そこのあたりは、僕、よくわかりませんけど、昔小劇場と言っていたのは、身体の問題を引っぱり出してきた人間ですよね。
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たとえば歌舞伎作品なら、あれは観客を楽しませるための文化だから、そこはとことん面白く作ります。だけど自分が作る現代劇は、そうじゃないモノを表現したい。
(中村勘三郎弔辞)これから僕は、君の死とともに、ずっとずっと生き続ける気がする。芝居の台本を書いているときも。桜の木の下で花を見ているときも。稽古場でくつろいでいるときも。落ち葉がハラハラと一葉舞うとき。舞台初日の本番前の袖でも、ふとしたはずみで、必ずや君を思い出し続けるだろう。
「永遠を垣間見る瞬間」を味わう。演劇は見たことも聞いたこともない世界へ連れ去ってくれるものです。なんとか、その力を取り戻したいです。
ところが、下の世代の表現を見ると本当に表層的だったりする。感情移入だけで見る若者が増えています。「それって泣ける?」が基準だったりする。感情移入するためだけに、ものごとはない。世界的にみて日本は危ないですよ。
「でたらめ」こそ「人間の勘」であり「人間のひらめき」であり「人間の天才」である。天才という響きが鼻につくなら、無意味と言ってよいかもしれない。
今の俳優さんに圧倒的に多いのは、ただ待っている人。何か始めればいいのに、何もしない。それでいて自信がある。他人は自分に関心を持ってくれて当然と思いこんでいる。僕って○○じゃないですか、なんて言う。本来、舞台に立つ人間は「いたたまれない」から、そこにいるべきなんです。
高3の時、ピーター・ブルックの「夏の夜の夢」を見て衝撃を受けました。空中ブランコを使った遊びの感覚にあふれた舞台でしたが。いつか、あんな芝居をやりたいという遠い目標になりました。
おそらく、誰もが自分を善意の人間だと信じている。だから、その善意のために、何かのスローガンが掲げられれば、あっという間に、一つの方向へいってしまう。
ミーハーの教祖とか若者たちの神々とか、いろいろなことを言われ、いつのまにか野田秀樹という虚名が独り歩きしはじめていた。夢の遊眠社のスタイルをこのまま続けていくことが嫌になった。バブルに向かう好景気を利用したのは事実ですが、劇団もバブルになった。
逆もあってさ、じゃあフィジカルだけでいいかと言えば、語っていない身体はダメだから。昔、あるダンサーをロンドンで見た時、評価の高かった人なんだけど、バカが踊ってるとしか思えなかった(笑)。まぁ、俺の若い頃もバカが動いてるだけだったけどね。
(ツイッターやブログに対して)最近若い表現者が、等身大の表現ばかりになってしまっているのは、そういうナルシスティックな世界に浸っているからではないか、と思います。