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古代天皇制の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史㉒
 元慶の乱―古代出羽で最大
                      堀込 純一

   Ⅻ 日本諸国と植民地でのエミシ反乱

   (3)現地だけでは鎮圧できない大規模反乱

 878(元慶2)年3月、出羽国で「元慶の乱」が勃発する。元慶の乱は、出羽国での古代の反乱では最大のものであり、38年戦争終結後の東北での反乱としても最大のものである。しかも現地だけでは鎮圧できず、坂東の兵も動員された。

     (ⅰ)乱の勃発と拡大(3月15日~6月上旬)

 3月29日、出羽国守藤原興世(おきよ)から「夷俘叛乱す。今月十五日、秋田城ならびに郡院屋舎、城辺民家を焼損(*火を放ちこわす)す。仍(よ)って且つは鎮兵を以て防守し、且つは諸郡軍を徴発す。」(『三代実録』元慶2年3月29日条)という飛駅の報告が入る。
 これに対する勅は、甘く考えていたようである(すでに3月17日の奏上でも、叛乱の報は入っている)。耕種の時期でもあるので、多くの農兵を動員することはできないが、精兵を発して、巧みな方略で鎮め「以て辺民を安んじよ」と命令している。
 ただ、万一の事態を考えたのか、勅は陸奥国にも出されている。そこでは、「若(も)し当国(*出羽国のこと)の兵力、制(せい)するに足らざれば、早く陸奥に告ぐ。そこに赴き救へしめ。すべて蛮貊(*北方の民への蔑称)の心、時に候(そうろう)て動く。醜類(*エミシを指す)の責むべき〔こと〕と云うと雖(いえど)も、抑(そもそも)亦(また)国宰(*国司)の不良。宜しく慰撫の化を施し、以て風塵の乱を遏(とど)むべし。」(同前)と述べている。すでに朝廷は、注目すべきことに、乱の原因を半ば、国司の苛政(過酷な統治)に求めているのである。
 出羽からの4月4日の奏上では、エミシの怒りのすさまじさと朝廷軍の敗北の様子が報告されている。3月下旬頃、出羽権掾(ごんのじょう)小野春泉(はるみず)・文室真人有房らが、「精兵を以て城に入り合戦す。夷党日に加え、彼(かれ)衆(おおく)我(われ)寡(すくなし)。城北・郡南の公私舎宅、皆(みな)悉(ことごと)く焼残(しょうざん *焼きこわす)す。殺虜人物、勝計(かぞ)ふならず。この国の器仗(*道具と武器)多くは彼の城(*秋田城)に在(あ)り。城を挙げて焼き尽くし、一として取る所(ところ)無し。去年登(みの)らず(*凶作)。百姓飢弊(きへい *飢え苦しむ)す。軍士徴発するも、曾(かつ)て勇敢さ無し。……」(『日本三代実録』元慶2年4月4日条)という状態である。
 出羽国からの報告では、4月上旬頃、「賊徒弥(いよいよ)熾(さかん)。討平(*討ち平らぐ)能(あた)はず。且(まさに)六百人の兵を差(つかは)し〔*派遣し〕、彼の隘口(あいこう *狭い出入り口)野代営を守る。焼山に至るころ、賊一千余人有(あ)りて、官軍の後(*背後)に逸出(いっしゅつ *にわかに出る)し、五百余人を殺略(*人を殺し物を奪うこと)し、脱帰者(*逃れ帰った者)五十人。城下村邑、百姓の盧舎、賊の焼損せるもの多し。……」(同前元慶2年4月28日条)となる。焼山の戦闘では、500余人が戦死し、武器などが奪われている。
 そこで朝廷は、4月28日、上野・下野の両国に各々1000人ずつの援軍を命じ、次いで、5月4日に、藤原保則を出羽権守(権とは、正官に添えて設けた臨時の官の意)に抜擢し、叛乱取り鎮めの指揮を執らせることにした。
(陸奥国からの5月4日の飛駅では、既に兵2000人を出羽に派遣し、また出羽国の要請によりさらに500人を増派したとの報告が入る。)
 出羽国から6月7日に報告が入り、そこでは去る4月19日の戦闘の状況が知らせてあった。それによると、「去る四月十九日、最上郡擬大領伴貞道、俘魁(*俘囚の長)玉作宇奈麿を遣わし、官軍五百六十人を将(ひき)いて、賊類の形成を須候(*斥候?)す。路に賊三百余人と遇(あ)い合戦し、賊十九人に射て傷つく。官軍七人が傷つけられ、貞道は流れ矢に中(あた)りて死す。廿日(二十日)、賊衆の増加し、相(あい)敵すべからず。暮れに會(あっ)て戦(いくさ)を罷(や)め、軍を引いて営に還(かえ)る。明日、凶徒挑み来たりて接戦す(*白兵戦)。賊死者五十三人、瘡者三十人。官軍死ならびに瘡痍(そうい *刀傷)者二十一人。賊の弓三十一、靭(ゆぎ *矢を入れて背に負う道具)二十五、襖(おう *上着)十七領奪取す。米穀糒(ほしいい)稲(いね)亦(また)復(また)数有り。賊の盧舎十二を焼き、七人を生虜とす。官軍疲れ極まり、射矢亦(また)尽くす。依って引きて営に還る。今月七日、重ねて宇奈麿を遣わし、高きに登り候(うかが)ひ望む。俄(にわ)かに賊に遇い、劔(つるぎ)を抜いて相(あい)闘い、首二級を斬る。宇奈麿は賊の手にて没す。其後(そのご)、俘囚三人有りて来たりて言ふ。賊は秋田河(現・雄物川)以北を己(おのれ)の地として請ふ。……自後賊徒猥(みだりに)盛(さか)ん。侵凌(しんりょう *侵す)息(やま)ず。官軍の征討、未だ摧滅の由(おこなひ)ならず。」(同前元慶2年6月7日条)と、エミシ軍の勢いは盛んである。そして、エミシたちは秋田河以北を自らの地として宣言したのである。
 この報告は、重ねて5月下旬頃、「権介藤原朝臣統行(むねゆき)、権掾小野春泉、文室有房等、進んで秋田旧城に至り、甲(かぶと)を蓄(たくわ)え粮(りょう *食料)を積む。陸奥押領使(おうりょうし *諸国の狼藉者を取り締まるために派遣された役人)大掾藤原梶長等、率いる所の援兵、本国兵卒と合わせて五千余人、聚(あつま)りて城中に在り。賊不意に出でて四方を攻圍(こうい)す。官軍力戦するも賊勢(ぞくせい)轉盛(てんじょう)。権介統行等、敗れて帰る。権掾有房死戦(*死を賭して戦う)す。」という。
 朝廷は、惨敗がつづく現地の様子をみて、軍事的な立て直しをはかり、6月8日、小野春風を鎮守将軍に任命し、陸奥権介坂上好蔭(よしかげ)とともに、再度陸奥国で救援軍を組織して急ぎ出羽現地の救援におもむくように命令する。

     (ⅱ)乱の転換期(6月中旬~8月下旬
 
 藤原保則は、6月中旬ころに出羽に着任すると直ちに秋田城戦況の把握に努める。それによると、反乱軍の根拠地は、秋田城下の上津野(かづの)・火内(ひない)・榲淵(すぎぶち)・野代(のしろ)・河北(かわきた)・腋本(わきもと)・方口(かたくち)・大河・堤・姉刀(あねたち)・方上(かたかみ)・焼岡(やけおか)の12村である。(図〔熊谷公男著「元慶の乱と北方蝦夷集団」―鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館 2016年 P.252〕を参照)
 保則が朝廷に送った報告によると、当面の方針は次のものである。(以下は、熊谷論文による)
①秋田営の防衛にはすでに到着した上野兵600余人をあてる。②「向化の俘地(朝廷に従がうエミシの地域)」―添河(そえかわ)・覇別(はべつ)・助川3村の俘囚と公民300余名を添河に配備して反乱軍に備える。③雄勝・平鹿(ひらか)・山本3郡の不動穀を3郡内および添河・覇別・助川3村の俘囚に支給し、反乱軍に夜襲をかけて戦果をあげる。④「党種多く、幾千人なるを知らず」とされた津軽の夷俘の反乱軍に味方するという噂があることを理由に、常陸・武蔵両国から救援軍2000人の増派を要請する―である。
 ④の増派要請は時期尚早とされるが、7月下旬には、上野軍の残りの200名と下野軍800名が到着し、坂東兵は1600人となる。
 8月4日に出羽国から奏上が都に着くが、『日本三代実録』は、それを「史闕」(しけつ *史料が失われたこと)とする。しかし、熊谷氏はその内容は他史料で復元できるとして、以下のようにまとめている(前掲論文)。
 ①出羽国司の指揮のもと、「義を慕うの至切」な「夷人」(「向化の俘地」の俘囚)を主体とする部隊が奇策を用いて反乱軍に勝利。②その戦闘で前弩師(さきのどし *弩とは、ばね仕掛けの大きな石弓)秦能仁(はたののうにん)・俘囚大辟法天(おおさきのほうてん)の功績がとくに大。③小野春風・坂上好蔭の率いる陸奥軍が「陸奥路」経由で上津野村に入り、挟撃体制が整う。
 8月23日にも、出羽国から戦況報告が入るが、これも「史闕」である。やはり他の史料で復元すると、次のようになるという(前掲論文)。
 ①8月上~中旬の戦闘で上野・下野両軍が反乱軍に大勝し、その戦死者・捕虜の数が相当数にのぼる。②その結果、すでに反乱軍の士気が低下し、政府軍も望郷の念を募らせている。③そのような状況で春風・好蔭率いる陸奥軍を秋田営に迎え入れるのは負担が大きいとして、いったん鎮守府まで退却を求める。④津軽・渡嶋の俘囚らが政府軍に助力を申し出てきたことへの〔中央の〕指示を仰ぐ。⑤戦功をあげた「狄俘」の饗宴での慰労の許可を求める。
 これに対して、朝廷は、後の9月5日の勅で、以下のような態度をとった。①については、その大勝利をほめ、今後も奮励するように命じた。③には、出羽国の判断に任すとし、④については、慎重に対応するように指示した。⑤については、急いで行なう必要はないと返答した。

    (ⅲ)乱の収束期(8月下旬~翌年の6月下旬)

 8月29日、反乱軍の300余人が城下に来て出羽国司らに会って「心憂」を述べ、帰降を願い出て許される―と言われる。
 9月25日には、上津野でエミシの調略にあたっていた小野春風が陸奥軍470人を率いて秋田営の北に到着する。そこでは、「賊首7人」も従えていた。春風は、これらのエミシの帰降を許可するように要請する。しかし、「義従の俘囚等」は、後の報復を恐れて、許可しないでせん滅することを主張した。このため、中央政府の指示を仰ぐことになった。
 これに対して、中央政府は、旧来の帰降の作法(武装解除をした上で、後ろ手に縛られた姿勢をとる)にのっとった投降者だけを受け入れるように命じた。
 12月下旬、反乱軍200人が甲(かぶと)22領を返還して、帰服を求めて来た。また、渡島の「夷首103人」が同族3000人を率いて、秋田城に来航し、津軽俘囚で反乱に参加しなかった者100余人とともに帰服してきた。そこで出羽国は彼らを饗応してねぎらった―と言われる。
 元慶3(879)年1月13日の勅で、朝廷はさらなる「奥賊征討」の命令を発したようである(「史闕」)。これに対して、藤原保則は、昨年8月の大勝利以降の経過を述べ、現段階における「征戦の弊」を示して「奥賊征討」命令の撤回を要請した。そして、通常の常備軍体制にもどるように訴えた。(『日本三代実録』元慶3年3月2日条)
 朝廷は、3月5日に保則の提案を受け入れ、諸国軍の解散、上野・下野軍の甲冑を出羽国に移譲すること、常備軍体制の設置などを認めた。そして、6月26日、保則は諸国軍を解散し、出羽国の常備軍1657人を置いたことを朝廷に報告した。

     (ⅳ)主因は凶作に加えた国司の苛政

 文章博士の三善清行が、後の907(延喜7)年に書いたものが、『藤原保則伝』である。それは、良吏の理想像を示すものであるから、内容上誇張もあると思われるが、次のような下りがある。「この国(*出羽国)は、民夷雑居して、田地膏腴(こうゆ *土地が肥えていること)に、土産(どさん *土地の産物)の出づるところ、珍貨多端なり。豪吏?(あわ)せ兼ねること、紀極あることなく〔*際限なく〕、私に租税を増して、恣(ほしいまま)に徭賦(ようふ *徭役)を加へつ。また権門の子の年来(としごろ)善(よ)き馬良き鷹を求むる者、猥(みだりがは)しく聚(あつま)ること雲のごとし。辺民(へんみん)愚朴にして、告訴するを知ることなく、ただその求(もとめ)に随(したが)ひて、煩費(はんひ)を言はず。これによりて隴畝(りょうほ *はたけ)の民、皆(みな)貧窮(びんぐ)なるがごとし。奸猾(かんかつ *悪がしこい)の輩(ともがら)多く富溢(ふいつ)を致せり。……」(日本思想大系8『古代政治社会思想』岩波書店 1979年 P.68~69)
 三善清行は、民が苦しむ理由として二つあげている。第一は、地方豪族が官吏を兼ね、「私に租税を増して、恣に徭賦を加へ」たことである。出羽国では、前年も凶作で人民が苦しんだが、それに国司の苛政が加わっているのである。保則も奏言で、「国内の黎氓(れいぼう *人民)、苛政に苦しみ来たり、三分の一、逃れて奥地に入る」(『日本三代実録』元慶3年3月2日条)と、過酷な政治に耐えかねて公民の三分の一がエミシの地に逃亡した、と明言している。したがって、元慶の乱のエミシ側には逃亡した「和人」も参加していることは十分ありうることである。
 第二は、高級貴族の子弟で、「年来善き馬良き鷹を求むる者」が雲霞のごとく集まっていることである。彼らはその権勢を利用して、エミシから不当な価(あたい)で馬や鷹を手に入れ、彼等を苦しめているのである。
 朝廷は、以前から出羽や陸奥の国司などに、しばしばエミシとの私的な交易を禁止したり、取り締りを強化するような命令を発している。その中で、802(延暦21)年6月24日には、「渡嶋(わたりしま)の蝦夷が朝貢する際、獣皮を貢進するが、都の貴族が品質の良い物を争って買うため、国司は残った品質の悪い物を政府に納めている。これは国司の怠慢である」(『類聚三代格』禁制事 P.611)と叱責している。
 ヒグマやアシカなどの獣皮が北方の特産物として、東北北部のエミシを仲介に、交易品として日本の貴族にも珍重(高級な鞍や刀などの装飾品となった)された。「正史」は日本を「中国」として叙述するため、周辺の他民族との交易をすべて「朝貢」として描いてきた。したがって、878(元慶2)年12月下旬、渡嶋の民3000余人が津軽の蝦夷100余人とともに、「帰服してきた」という下りも、歪曲された「正史」の筆法の類であることは、十分考えられる。彼らは、戦争をやめて単に平時の交易に戻ろうとしただけであろう。また、小野春風が反乱軍の背後のエミシを調略した(戦局を最終的に決定づけた)のも、対等な交易、あるいはエミシにとって極めて有利な交易条件をもちかけて離脱させたことも考え得る(史闕となっている部分には、買収も含めたもっとあくどい策略が書かれていたこともありうる)―のである。(つづく)
 










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