先日「ヒロシマの嘘」福島菊次郎 著 現代人文社 刊 という本をもとに日本の行政サービスの醜さについて記しましたが今日はこの本をもとに、太平洋戦争中の日本軍について書きたいと思います。

よく、戦時中の日本軍は「お国のため、天皇陛下のために自らの命を省みず戦った」と言って当時の日本の軍人を素晴らしい人物像を醸し出すようなことを言われる方がいますがこれから書くのはそれとは真逆の内容になります。では書きます。まずは同著から引用します。

(引用開始)

タイトル:リンチ、糞まみれの二等兵

入隊して内務班に配属されるとその晩から恐ろしいことが始まった。銃や短剣などの軍装品が支給されると班長がいきなり怒鳴った。「軍人勅諭が言える奴は手を挙げろ」。

招集前に全部暗唱していたので、「ハイッ」と挙手したが、ヒロシマの嘘3手を挙げたのは僕だけだった。「福島二等兵」と指名され、句点も濁点もない文体を、「朕ハ汝ラ軍人ノ大元帥ナルソ サレハ朕ハ汝ラ軍人ヲ股肱(ここう)ト頼ミ 汝ラハ朕ヲ頭首ト仰キソノ親シミハ特ニ深カルヘシ 一ツ軍人ハ忠節ヲ尽クスヲ本分トスヘシ 一ツ軍人ハ礼儀ヲ正シクスヘシ 一ツ軍人ハ武勇ヲ尊フヘシ 一ツ軍人ハ信義ヲ重ンスヘシ 一ツ軍人ハ質素ヲ旨トスヘシ」と大声を上げて朗読した。

軍人勅諭は明治政府が陸軍を創設したときに、軍の統率者で大元帥である天皇が、兵士に軍律と統帥権に従うことを厳命した長文の勅語で、相当努力しないと全文が記憶できない難解な文章だった。半分あまり朗読したところで、「よぉーし次、ほかに覚えている奴はおらんかっ」と班長が怒鳴ったが、挙手する者はいなかった。罵声が飛んだ。

「福島二等兵のほか全員起立っ、眼鏡を外し歯を食いしばれっ」と命令した班長は三人の教育係の古兵と、直立不動の姿勢で並んだ新兵に往復ビンタを食らわせ、手でかばった者はもう一度殴られた。リンチはそれだけでは終わらなかった。往復ビンタがすむと今度は上靴で殴られ、鼻血が飛び散った。上靴は裏に鋲が打ってあり、殴られると口のなかが切れて出血して腫れ上がり、二、三日は痛くて飯も食べられなくなる。

リンチはまだ終わらなかった。全員を二列に向かい合わせ互いに顔を殴り合う、「対抗ビンタ」が始まった。目を背けたくなる凄惨なリンチに縮み上がり、自分だけが殴られない後ろめたさに身の置き場もなく、少年の頃から「兵隊さん」に対して抱いていた憧れは一瞬に砕かれた。

翌朝、起床ラッパが鳴って目が覚めた瞬間から始まった軍隊生活は恐怖の連続だった。あわただしく飛び起きて軍装を整え、洗面所に駆け込んで顔を洗い、完全武装して朝の点呼に整列するまで走りづめで、脚絆(きゃばん)がちゃんと巻けず、ぶらぶらしている新兵には容赦なくビンタが飛んだ。練兵場に走り込む間にも上官に出会うと、カチンと靴の底を鳴らして直立不動の姿勢で敬礼しなければ殴られた。

点呼がすむと朝食が始まった。兵隊メシは米五分に大豆と麦が交じった一汁一菜にタクアンがついた献立で、重湯も喉を通らない状態で入隊した僕はたちまち激しい下痢を始めた。大豆も麦も未消化のまま排泄され、便所のなかで立ち上がれなくなって、必死になって這い出して練兵場に走った。訓練が始まると便所には行けないので死ぬ思いをした。弾薬庫から石を詰めた重さ25キロもある弾薬箱を、わざわざ練兵場の真ん中に停めた馬車まで50メートル余りの距離を小走りに担いで運ぶのに、膝ががくがくして倒れそうになり目から火が出た。

やっと馬車にたどり着いても、息つく間もなかった。ひと馬車に20箱積まなければならなかった。途中で何度も目が眩み、「もう駄目だ」と思いながら歯を食いしばって頑張った。本職の馬車引きは手慣れた仕事で苦もなく運んでいたが、僕は力仕事をしたことがなく、そのうえ下痢が続いて体が衰弱しているので必死だった。やっと馬車に積み終わると今度は一周200メートルある炎天下の練兵場を何周もぐるぐる回り、昼になると積荷を弾薬庫に納め、午後また同じ訓練をする絶望的な毎日が続いた。

体が衰弱し歩くのがやっとだったので「早駆けっ」と号令がかかると、走りながらまだ馴れぬ馬の暴走を押さえるのに必死になり、目が眩んだ。もっとつらいのは下痢の頻発だった。訓練中には便所に行けないので下痢を堪えることができず、訓練しながら垂れ流して糞まみれになり、「貴様っ、そのざまはなんだっ、臭い」と怒鳴られて尻を蹴飛ばされた。起床ラッパが鳴ると必死で重たい体を起こし、毎日「早く死にたい」と願ったがそれでも僕は死ななかった。

ある夜、班長が珍しく上機嫌で、「今夜は貴様らと腹を割って話し合いたい。俺も初年兵をやってたから、貴様らが毎日どんなにつらいかよくわかる、つらいと思う奴は正直に手を挙げてみろ」と親切めかして言った。その言葉に釣られて二十数名の新兵の大半が手を挙げた。僕も毎日死ぬほどつらかったので思わず手を挙げかけたが、「何くそっ」と思い止まった。

陰険な誘導尋問だった。手を挙げた新兵の人数を数えた班長は突然態度を豹変させ、「手を挙げた奴は全員起立っ、貴様らそんな根性で天皇陛下にご奉公できると思うか」と全員を殴りつけて、夜の営庭に整列させた。臨時部隊編成のため人員割り当てに、成績の悪い新兵を追い出す騙し討ちだった。各班でも同じことが行われ、その夜のうちに臨時部隊が編成されて翌日未明、営門から出勤した。

除隊後、その部隊が乗船した輸送船は豊後水道を出ると間もなく米軍潜水艦に撃沈されてほとんど死亡したと兄から聞き、「もしあのとき手を挙げていたら」とゾッとした。最初の命拾いだった。宇品の船舶会社に勤め、兵員輸送の配給の仕事をしていた兄は、その船に僕たちの部隊が乗船したことを知り、「菊次郎が乗った輸送船が撃沈された。もう生きてはいないだろう」と家に連絡した。母は僕が死んだと思い、戦死の広報もないのに仏壇に線香を焚き、「あの海の好きな子が海で死ぬとは」と毎日泣いていたそうである。

(引用終わり)

これは著者の福島氏が1944年4月、第5師団広島西部第10部隊に召集され、その部隊での生活を記したものになります。福島氏は召集される2週間前に急性の黄疸にかかり、医者に入隊を止められたのですが当時の日本軍人特有の、‘戦いにいかないのは恥’とする思考によって無理をして入隊しました。そこで待ち受けていた地獄絵のような日本軍隊の実情を記したものになります。

尚、このような日本軍隊の実像はこの福島氏の他の記述も含めて読む限り、例外的なものではなく、大方どの軍隊もこのような実態だったと思われます。我々が毎年8月になるとTVなどで目にするノンフィクションタッチの戦争ドラマではこのような惨殺な場面は見られません。少なくても私は見たことがありません。

また、この引用文でわかるのは最後から2段落目に、この部隊の班長が部下を殴りつける時に、「手を挙げた奴は全員起立っ、貴様らそんな根性で天皇陛下にご奉公できると思うか」とあるように戦争で戦うことが、‘天皇陛下のため’とされていることです。‘日本国の利益のため’ではないのです。

そして引用文2段落目にある「軍人勅諭」をもう一度記せば、

「朕ハ汝ラ軍人ノ大元帥ナルソ サレハ朕ハ汝ラ軍人ヲ股肱(ここう)ト頼ミ 汝ラハ朕ヲ頭首ト仰キソノ親シミハ特ニ深カルヘシ 一ツ軍人ハ忠節ヲ尽クスヲ本分トスヘシ 一ツ軍人ハ礼儀ヲ正シクスヘシ 一ツ軍人ハ武勇ヲ尊フヘシ 一ツ軍人ハ信義ヲ重ンスヘシ 一ツ軍人ハ質素ヲ旨トスヘシ」

とあるように軍人が天皇の完全な下僕になるように書かれています。この軍人勅諭の「朕ハ汝ラ軍人ノ大元帥ナルソ」は軍人の大元帥、つまり総指揮官は天皇ということになります。この時は太平洋戦争ですからもちろんその総指揮官は昭和天皇裕仁になります。さらに軍人勅諭には、「汝ラハ朕ヲ頭首ト仰キソノ親シミハ特ニ深カルヘシ 」ともあります。つまり天皇は大元帥だから、「頭首ト仰キ」と軍人にクギをさしてるわけです。昭和天皇裕仁は戦後、戦争責任を負わなかったばかりか莫大な財産を終戦直前にスイスの銀行に移し、日本の林野を買い漁り、戦後も莫大な財産を所有し続けましたが。

そして今からちょうど70年前の今日である8月9日(アップするころには日付は10日になっていますが)長崎に原爆が落とされました。その長崎市の惨劇は、

死者10万人、負傷者7万5000人、被災者13万8930人、焼失家屋1万8620戸、焼失率40%

でしたがその日に御前会議が皇居内の、天皇皇后両陛下の寝室・居間のある吹上御文庫地下壕から90m離れた地下壕「吹上御文庫付属室」で行われました。

この御前会議で話し合われた内容として、昭和天皇裕ヒロシマの嘘5仁の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が書いた日記である「木戸日記」の8月9日の日記には、上記の被害を被った長崎については一言も書かれていない、と「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊 には書かれています。

そしてこの8月9日付の日記の最後の部分に、

「皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受託の旨決定す。」

と書かれているようです。つまり、死者10万人、負傷者7万5000人、被災者13万8930人、焼失家屋1万8620戸、焼失率40%の被害を被った長崎市のことはいっさい御前会議の議題にならず、ポツダム宣言、つまり連合国側に降伏宣言を出す条件は天皇制の維持のみ、ということが会議で決まったと書かれているのです。

そんな昭和天皇裕仁について、上述した引用文の章の最後の部分に記してあったのでその文を引用して終わりにしたいと思います。尚、この引用文は著者の福島氏が運良く死なずに郷里の山口の実家に帰ってきたときのことが書かれた文になります。では引用します。

(引用開始)

(前略)母と姉は僕が出征するとき工場地帯に住んでいたが、空襲が激しくなったので住み慣れた家を捨て市外の農家の部屋を借りて住んでいた。空家になったわが家の前に立ってしばらく呆然としていたが、やっと移転先を探し当てて顔を合わすと、母は、「お前はまだ生きていたのか、本当の菊次郎か、今度こそ原爆で死んだと思うておった」と足元に取りすがって泣いた。夜、異様な姿をして戸口に立っているので今度こそ本当の幽霊かと思ったのだそうだ。

食糧不足や毎晩の空襲警報に逃げ惑い、母は別人のようにやつれてめっきり白髪が増えていた。小学校の教員だった姉は僕の出征中に潜水艦の下士官と結婚式をヒロシマの嘘4挙げ、3日間の休暇を一緒に暮らしただけで、南方に出撃した夫が戦死し未亡人になっていた。写真で初めて見たその人は、もはや2度と合うことのない美丈夫だったが、戦争が僕のいないわずかな間に姉の運命を変えていた。

「転居や結婚の通知をしたのに、何の返事もないのでもうどこかで死んだと思うていた」と姉も泣いたが、その手紙は僕の手には届いていなかった。戦争は国民の命を奪っただけでなく、家族の絆や音信までも断ち切っていたのである。久しぶりに灯火管制のない眩しい電灯の下で、軍隊からもらって帰った白米を炊いて3人で遅い食事をしながら話は尽きなかった。狭い部屋で親子が久しぶりに枕を並べて寝てから、急に激しい鳴咽が込み上げ、頭から布団を被って泣いた。

翌朝、姉の机の上に貼ってあった紙切れにふと目を止めて愕然とした。

「敵が上陸してきたら敵陣に切り込んで殺し、白兵戦では竹槍で敵の腹部をひと突きにし、鎌、包丁、鉈(なた)などで背後から奇襲の一撃を加えて殺す。格闘の場合は鳩尾(みぞおち)を突き、睾丸を蹴り上げる。」

この通達は、本土決戦に備え大本営が全国の家庭に配布した「国民抗戦必携」からの抜粋である。元気な男が根こそぎ召集や徴用で動員され、後に残された老人・婦女子に近代装備の米軍と竹槍や鉈で戦って殺せ、と命令したのである。気性の激しかった母や、夫を戦死させたばかりの姉は、もし本土決戦が始まっていたら大本営の命令通りに包丁を振りかざして抗戦し、なぶり殺されていただろうと思うと激しい怒りが込み上げてきた。

大本営の統帥である天皇が、国民に死ぬことを命令したこの冷酷な通達をまさか知らなかったとは言えまい。戦争の挑発者たちは国民を虫ケラのように殺すことに何の呵責も感じてはいなかったのである。僕はこの日から、この国と天皇を憎む人間になった。

(引用終わり)