新幹線の生みの親 十河信二

全国に新幹線で移動できる時代が近づいている。十河信二は第4代国鉄総裁として、当時は世界中に前例のない一大プロジェクトを開始。東京オリンピックが開催する1964年に"夢の超特急"東海道新幹線の建設を実現した。

新幹線0系電車。1964年の東海道新幹線開業用に開発した、初代の営業用新幹線

自動車、航空機に勝つ"夢の超特急"

第18回夏季オリンピック東京大会の開業式を9日後に控えた1964(昭和39)年10月1日、最高時速210km、東京~新大阪間を3時間10分(開業当初は4時間)で結ぶ東海道新幹線が開業した。"夢の超特急"ともよばれた東海道新幹線は、世界の鉄道の歴史に新たな頁を開くものであった。高速鉄道時代の幕を切って落とし、自動車や航空機の進出によって斜陽産業とみなされていた鉄道が息を吹き返したのである。この東海道新幹線という事業を構想し成功に導いたのが、1955年5月20日に長崎惣之助のあとを継いで第4代国鉄総裁に就任した十河信二であった。

国鉄総裁の就任は71歳

政府部内では、長崎の後継総裁は国鉄の関係者ではなく財界から選ぶべきであるという考えが支配的であった。

十河信二(そごう・しんじ 1884−1981)

十河は東京帝国大学卒業したのち1909(明治42)年に鉄道院に入り、鉄道を近代国家の動脈にするという構想のもとに広軌改築を推進してきた当時の鉄道院総裁・後藤新平の影響を強く受け、南満洲鉄道や華北交通の理事として活躍してきた。戦後は国鉄に関係していないので部内者ではないというのが総裁任命の理由であったが、「遠縁」であることに間違いはなかった。

また就任当時71歳という高齢でもあったため、「骨董品」や「古機関車」にたとえられるなど、十河の国鉄総裁就任は必ずしも歓迎されていたわけではなかった。

国鉄総裁に就任すると、十河は外部資金を導入しながら幹線を電化するという「国鉄幹線電化十ヵ年計画」を立てたが、実はこのころから東海道新幹線の建設を構想していた。国鉄は政府が策定した「経済自立5カ年計画」に対応させて、輸送力の増強と老朽施設の改善を目的とした第一次五ヵ年計画を1957年度から発足させた。しかし十河は高度経済成長政策が本格化していけばこれではどうにもならないと考えていて、広軌別線による東海道新幹線を構想し技師長の藤井松太郎に相談した。藤井が動かないとみると建設担当の常務理事に転出させ、1955年12月1日付で桜木町事故の責任をとって国鉄車両局長を辞して住友金属工業の顧問をしていた島秀雄を副総裁格の技師長に招いた。

世界銀行から資金借款 条件はオリンピックまでに開通

南満州鉄道の本社。十河は国鉄総裁以前に南満州鉄道の理事を務めた
Photo by塩崎伊知朗

1956年5月には島を会長とする「東海道線増強調査会」を国鉄に設置し、東海道線の将来の輸送量、輸送力、サービスの程度、動力方式、車両、保安施設などを検討させた。同会議では、(1)現在線併置案、(2)別線狭軌案、(3)別線広軌案などが検討されたが、(3)の別線広軌案を採用すべきであるという結論に達した。1957年8月には運輸大臣の諮問機関として運輸省内に「日本国有鉄道幹線調査会」を設置し、58年7月に新幹線に関する具体的な答申を運輸大臣に提出した。また同年秋ごろから世界銀行と接触し、東京オリンピックまでには開業するという条件のもとに総額8000万ドルの借款を受け入れ、1961年5月に調印した。これによって、東海道新幹線の建設は日本のいわば国際公約となった。

東海道新幹線は1959年4月20日に新丹那トンネル熱海口で起工式が行われたが、その1カ月後の5月19日には十河の総裁任期が切れることになっていた。十河自身は東海道新幹線の建設に並々ならぬ意欲を示していたので再任を強く望んでいたが、政府は高齢を理由に勇退をせまり、後継総裁には前開発銀行総裁の小林中や営団総裁の鈴木清秀らの名が取り沙汰されていた。

しかし十河の退任を惜しむ声が各方面からおこり、世論の圧倒的な支持を受けて再任された。

東京駅19番ホームの最南端にある十河信二のレリーフ。肖像とともに十河の座右の銘「一花開天下春」が刻まれている

十河総裁が再任されると、国鉄は第一次五カ年計画を4年で打ち切り、1961年度から第二次五ヵ年計画に移行し東海道新幹線の建設を推進した。

しかし1963年に入ると十河総裁の任期が同年5月で切れるため、再び後継総裁選びが問題となった。政府は後任総裁を財界人から起用するという方針を立て、十河自身も東海道新幹線の工事費が予定よりもかさみ、国鉄財政に悪影響を与えたことを理由に再任の意思がないことを表明した。十河は東海道新幹線の建設を優先して技術者をそこに集中させ、在来線の改良のほか一部の新線建設も振り替えた。そのため政治家や運輸省の批判を浴び、総裁辞任に追い込まれたのである。このときには前回のような総裁留任を求める世論もおこらず、元三井物産常務の石田礼助が後継総裁に就任した。

十河には、東海道新幹線に対する揺るぎない信念があった。後藤新平らの先人に学び、日本の経済発展のためには狭軌道からなる鉄道を広軌道に改築しなければならないと考えていた。そして国鉄内部の反対派との対立も辞さずに、東海道新幹線の実現に向けてひとつずつ布石を打っていった。ゆるぎない信念と反対派を切り崩していくねばり強さ、これこそが東海道新幹線という事業構想を成功に導いた要因といえる。ただし、そのために在来線の輸送力増強はあとまわしにされ、国鉄財政もしだいに悪化していくことになった。公共企業体としての国鉄の「健全な運営」は、なおも大きな課題として残った。

老川慶喜(立教大学経済学部 教授)
立教大学経済学研究科博士課程修了後、関東学園大学、帝京大学を経て現職。日本の鉄道史研究を専攻し、編著『東京オリンピックの社会経済史』(日本経済評論社)に「東海道新幹線の開業―十河信二と国鉄経営―」を執筆。そのほか鉄道史関係の著作が多数ある。

 

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