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相馬大作事件 - Wikipedia

相馬大作事件(そうまだいさくじけん)は、文政4年4月23日1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲撃した事件。

秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。背景には津軽藩との家格問題がある。大作は藩主の無念を晴らすため、寧親を隠居に追い込み昇進を阻止しようと考えた。[1]

この事件は「相馬大作事件」、「檜山騒動」と名付けられ、中央では講談や狂歌となり世間の注目を浴びた。物語本はあるが、公の記録はほとんどない。それは大作が津軽藩主を襲撃したことだけを広めたかったからだと考えられる。[2]

経緯編集

南部藩の格式問題編集

1614年、南部利直徳川家康から虎二匹を拝領。許可をもらい、死んだ虎皮を革鞍覆にし南部藩の誇りとしていた。しかし重直の代に幕府の不興を買った上、相続問題で8万石に減俸されて虎皮の常用ができなくなった。まもなく領地は10万石に戻ったが虎皮は常用できず、さらに利雄時代には使用禁止となってしまう。そのため虎皮使用は藩の宿願となった。[3]

また津軽藩主・津軽寧親は時の老中と親戚で、家格昇進し侍従少将となる。江戸城での席も南部藩主・南部利敬より上席となった。南部藩にとって、津軽藩は元家臣でありながら戦国時代に十万石を横領した謀叛者であり、その下位につくことは堪えがたい屈辱だった。[4]

相馬大作について編集

通称相馬大作、本名は下斗米将真(まさざね)である。下斗米氏は本姓は平氏平将門の子孫である相馬師胤の末裔である。師胤の8世の子孫である光胤の四男胤茂の子の胤成が正平年間、南部氏につかえて南部の家中になった。下斗米というのは、現在の岩手県福岡から7、8km西北にある村であるが、ここに住み知行100両で郷名を取って下斗米氏を名乗るようになった。その後、数代を経て下斗米宗兵衛常高に至る[5]。下斗米宗兵衛常高(寛政6年(1794年)死去)は紙蝋漆を扱う平野屋を興し、一代で豪商となり、さらに安永年間に数度の献金により200石となり、盛岡支配福岡居住となる。下斗米宗兵衛の子が下斗米総兵衛である。下斗米宗兵衛の嫡男は平九郎昌宜である[注釈 1]

陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが、病弱であった兄が父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞きし、脱藩して1806年(文化3年)に江戸に上った。江戸では実家の商売上のつきあいがあった美濃屋に4か月ほど世話になった後、知り合いの紹介で夏目家に入門することにした。

相馬大作は夏目長右衛門という旗本に師事して武術を修めたが、1年ほどで夏目が1808年正月に文化露寇への対応で仙台藩兵2千名と共に択捉島に派遣を命じられると、次に平山行蔵(夏目は平山の高弟)に入門した。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。

父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設する。相馬大作の姉婿の田中館栄八や下斗米惣蔵、欠端浅右衛門、田中館連司[注釈 2]、一条小太郎など数十人が入門した。同塾では武家町人の子弟の教育にあたった。同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれている。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されている)。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア帝国)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたという。この思想は、師匠の平山行蔵の影響とされる[6]1817年(文化14年)相馬大作は細井萱次郎[注釈 3]とともに、ロシア船の南下がしきりに伝えられる蝦夷地を視察、北方警備の重要性を痛感する。

ただ、遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されたことや、有能な財務担当の細井萱次郎が「コロリ」であっけなく死亡したことから、兵聖閣の経営状態は極めて悪化していた[7]

事件の背景編集

 
国道7号線沿いにある、相馬大作事件発生の地。岩抜山

幕府は南部藩や津軽藩などに松前防衛に当たらせていたが、より防衛を強化するため幕府直属部隊を松前近くに派遣させる計画を立てた。幕府老中の堀田摂津守は利敬と会談し、南部藩領の田名部を幕府基地として差し出せば家格を昇進すると約束し、利敬は独断で内諾してしまう。[8]

事態を知った家老の北監物は、名義ばかりの増し高で負担が多くなること、また田名部の歴史と由緒を理由に大反対した。非を悟った利敬は誤りを認め自ら謝罪に出向こうとしたが、重臣の案で八戸美濃が名代となり江戸城に出向くことになった。八戸の機転と忠義でその場は不問となる。[9]

しかし面白くなかった幕府は松前出兵の功として、領地をそのままに名義上20万石に加増。実質上は領地が増えていないにも関わらず軍役負担や交際費などが倍になり、財政は窮迫。しかも津軽との家格差は埋まらず、利敬は若くして逝去。[10]世子はまだ若く無官で、江戸の席次はさらに下がることとなった。

事件の経過編集

大作は父の見舞いで江戸から帰国すると、国防のため子弟を教育したり松前視察をしたりしていた。しかし藩主が積年の鬱積で死を早めたと聞き、ある決心をした。

津軽藩の昇格を阻止するためには当主寧親に隠居してもらうのが良いと考え、「相馬大作」という仮名で津軽行列の襲撃を計画した。隠居しなければ道中暗殺するという脅迫状を送ったが、本当の狙いは、津軽藩主が浪人の脅迫に恐れをなし、本道を避け間道を通ったと宣伝して辞職に追い込むことだった。相馬ら一行に加わっていた鍛冶の喜七[注釈 4]らが津軽に脱走して密告したが、それは裏切りではなく事前に計画をもらすためだったとも考えられる。

そのためか、密告を知っていた大作は少しも動じずに計画を実行し、偽物と分かっていながら鉄砲を打った。[1]

事件の処理編集

津軽藩では事件後、笠原八郎兵衛が中心となり大作らの行動を調べた。もし背後に南部藩当局がいれば南部藩を相手に雌雄を決する必要がある。違うならば一浪人の果たし状に恐れて間道を通ったことが暴露されるうえ、もし津軽家創立当初にさかのぼって事を明らかにされれば世論的に不利な立場となる。笠原は慎重に調査を行ったが、藩当局関係者とみられるのは福岡代官の中野周右衛門のみであり、しかも中野はすでに罷免されており南部藩は関わっていなかった。笠原らは南部藩と事を荒立てず大作を捕まえようとしたが、大作は浪人とはいえ南部藩の地方給人の子で、捕まえるには南部藩の了解が必要だった。笠原が苦悩していると、大作は妻子を連れ江戸に出た。もし大作が南部領内で不慮の死にあえば親類はもちろん藩に迷惑がかかるが、浪人として他国で死ねば他に迷惑がかからないと考えた。

笠原は津軽家が田安家と親戚で、老中から信任があったのを利用して幕吏に大作を捕らえさせた。大作は牢の中で一貫して自分一人の計画であると主張し、なるべく他に類が及ばないように努めた。文政五年(1822)8月29日処刑となる。

しかし寧親は隠居することになり、大作は目的を果たすことができた。[11]

その後編集

事件への同情編集

老中青山忠裕が自邸にて経緯を糺した際に、武士の立場上から秀之進に同情を寄せたという話が残っている。

当時の江戸町民は、この事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は後世になって講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、弘前藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。実際は津軽寧親は普通に隠居し、その後は風雅を楽しんで暮らしている。

この事件は水戸藩藤田東湖らに強い影響を与えた。当時15から16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』[12]を著した。この書の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』を著した。

盛岡藩の御用人であった黒川主馬らが提唱した忠義の士・相馬大作の顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。この供養碑には頭脳明晰となる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に与ろうと石塔を砕いてお守りにする者が後を絶たなかったという。黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。 また、東京都台東区谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年(明治15年)2月、右団次によって建立された。

妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。また、秀之進の供養のために1852年(嘉永5年)10月、南部領盛岡に感恩寺が建立され、秀之進の息子(後の英穏院日淳贈上人)が初代住職となった。妙縁寺感恩寺はいずれも日蓮正宗の寺院。

事件への批判編集

一方では、弘前藩と同じく山鹿素行の子孫を重臣に登用した平戸藩主・松浦静山は、「大石内蔵助の再来」とも称された相馬大作事件を「児戯に類すとも云べし」と酷評し、「弘前候の厄、聞くも憂うるばかり也」と同情が寄せられている。元禄赤穂事件についても、事件の際に吉良邸へと救助に駆け付けた津軽氏主従を絶賛し、赤穂義士を「大石の輩」と蔑称で延べ痛烈に非難している[13]

斬首で使用された刀「延寿國時」(南北朝時代の作)は、青森県弘前市指定文化財として市内に現存する。

是非公正・異説など編集

長州藩吉田松陰は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ、暗殺が成功したか地元住民に訊ね、また長歌を詠じて秀之進を称えた。ただし南部藩政に関しては藩領内視察の結果、著しく酷評している。また、吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。

講談編集

江戸時代講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は、現在は発見されていない。1884年(明治17年)の『改新新聞』に連載された『檜垣山名誉碑文』[14]が1885年(明治18年)に刊行された。1888年(明治21年)には講談『檜山麒麟の一声』が講釈師柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。相馬大作事件が大衆に知られて人気が出たのは、柴田の高座からであると言われている[15]。また、『檜山実記・相馬大作』[16]などの演題も、田辺南龍邑井一邑井貞吉などの講釈師によって演じられた[17]

しかし、この弘前藩を一方的に悪者に仕立てたこれらの講談に対し不満を抱いた旧弘前藩士らは抗議し、訴訟にまでなった。警視庁は公演や芝居は差し止め、刊行本は発売禁止としたが、押さえきれず、表向きの看板をはずした中で興行はつづいた。1923年(大正12年)、東京八丁堀では講釈師・神田魯山が興行を行った。1927年(昭和2年)には東京神田での宝井琴慶、浅草での西尾麟慶の興行などが有名になっている。宝井琴慶の「檜山」は、相馬大作が江戸両国橋上で津軽家の御乗物に発砲し、仕損じて木更津に逃げるという筋書きであるという[17]

長谷川伸の『相馬大作と津軽頼母』編集

相馬大作を裏切った刀工の一人徳兵衛は、身の危険を感じながらも相馬大作を終始にわたって手伝い、犯行予定現場まで相馬大作に同行し、その後相馬大作の行動を江戸の奉行所や弘前藩で証言して、弘前藩にはその功績によって武士に取り立てられた。徳兵衛の子孫である菊池武夫は、弘前藩が悪者扱いされている多くの「相馬大作物」の存在を憂い、作家長谷川伸に家に伝わる文書一切を預けた。長谷川伸はその文書から研究を始め、さらに多くの史料を集め、相馬大作物の「トンチキさ」に気づく。長谷川は小説『相馬大作と津軽頼母』を『大衆文芸』誌に1943年1月号から1944年2月号まで連載。さらに、戦後時に触れ書き改めている[18]

長谷川は自身の小説『相馬大作と津軽頼母』を「事実に近いノン・フィクション小説」としている。この小説によって弘前藩の冤はかなりすすがれてもいるが、弘前藩の反省点も同時に描かれている。津軽氏の出自に関して、弘前藩と盛岡藩は異なる主張をしていたが、弘前藩用人の笠原八郎兵衛による江戸での強引な工作に反感を感じた奉行の青山忠裕は、わざわざ「津軽家古来、南部家臣下の筋目」などと判決文に相馬大作の言い分を全面的に取り入れ、これを聞いた相馬大作は落涙している[18]

津軽頼母は笠原八郎兵衛と対立する弘前藩の重臣で、より広い視点から事件を見ており、勇猛な考えを持つ藩士が多い中、思い切った行動を取りながらも事件を穏便にすまそうとする人間として描かれている[18]

相馬大作を扱った物語編集

小説・講談本編集

評伝・その他編集

映画、ドラマ編集

  • 尾上松之助『相馬大作』映画、1908年、横田商会
  • 『相馬大作と伊達の三次』映画、1914年、天活
  • 尾上松之助『檜山騒動(騒動檜山二代目)』映画、1914年
  • 中村吉十郎『檜山騒動相馬大作』映画、1917年、小林商会
  • 尾上松之助『相馬大作』映画、1918年、日活
  • 尾上松之助『檜山騒動』映画、1918年
  • 澤村四郎五郎『相馬大作(桧山大騒動)』映画、1919年、天活
  • 尾上松之助『相馬大作』映画、1920年、日活
  • 尾上松之助『相馬大作漫遊記』映画、1921年、日活
  • 吉野二郎 『相馬大作』 映画、1921年、松竹キネマ
  • 実川延松 『相馬大作』 映画、1921年、帝国キネマ演芸
  • 『相馬大作』 映画、1921年、小松商会
  • 澤村四郎五郎『相馬大作』映画、1922年
  • 阪東太郎『相馬大作』映画、1926年、東亜キネマ
  • 河部五郎『鬼傑の叫び』映画、1927年
  • 片岡千恵蔵『相馬大作 武道活殺の巻』映画、1929年
  • 河津清三郎『三人の相馬大作』映画、1931年、新興キネマ
  • 小金井勝 『相馬大作 前篇・後編』映画、1931年、河合キネマ
  • 尾上栄五郎『相馬大作』映画、1934年、松竹キネマ
  • 嵐寛寿郎『江戸の龍虎』映画、1942年、日活
  • 嵐寛寿郎『剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動』映画、1956年、新東宝 
  • 堀雄二『講談ドラマ 相馬大作』テレビ単発、1964年、NHK
  • 堤大二郎八百八町夢日記スペシャル みちのく忠臣蔵』日本テレビ単発、1991年

漫画編集

  • 若月てつ『かげろう剣士 怪傑相馬大作』野球少年1955年連載
  • よこきけんじ『相馬大作』漫画王1956年2月

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 平九郎は父の跡を相続したが、1822年(文政5年)弟秀之進の事件で1823年(文政6年)大迫に所替となり後に許されて盛岡に居住。1837年(天保8年)に死去した
  2. ^ 田中舘愛橘の祖父
  3. ^ 曾祖父は細井広沢である。(長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』)
  4. ^ 直接弘前藩に暗殺への警告文章を渡したのが喜七である。南部藩にいた頃は、南部藩主と同じ字があることから嘉兵衛と名乗った。喜七は野辺地を越え、狩場沢陣所に書簡を届けた。喜七の祖父は関脇宮城野錦之助である(長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』)。
  5. ^ 流泉小史は岩手県水沢市出身の作家で「剣豪」を造語した。
  6. ^ 山田風太郎には相馬大作が登場する『怪異二挺根銃 - 津軽忍法帖』『春夢兵』『剣鬼と遊女』『大いなる伊賀者』などの多数の著作がある

出典編集

  1. ^ a b 『岩手県の歴史』山川出版社、1972年、134-137頁。 
  2. ^ 森嘉兵衛 『岩手をつくる人々. 古代-近世篇 下巻』法政大学出版局、1983年、237頁。 
  3. ^ 森嘉兵衛 『岩手をつくる人々. 古代-近世篇 下巻』法政大学出版局、1983年、239-240頁。 
  4. ^ 森嘉兵衛 『岩手をつくる人々. 古代-近世篇 下巻』法政大学出版局、1983年、240頁。 
  5. ^ 海音寺潮五郎『列藩騒動録(下)』
  6. ^ 岩手県教育会盛岡市部会編 『郷土資料:修身科補充教材 相馬大作
  7. ^ 長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』
  8. ^ 森嘉兵衛 『岩手県の歴史』山川出版社、1972年、132頁。 
  9. ^ 『岩手をつくる人々. 古代-近世篇 下巻』法政大学出版局、1983年、244-248頁。 
  10. ^ 森嘉兵衛 『岩手県の歴史』山川出版社、1972年、133-134頁。 
  11. ^ 森嘉兵衛 『岩手県の歴史』山川出版社、1972年。 
  12. ^ 近古史伝 : 名家奇文”. 2022年12月18日閲覧。
  13. ^ 松浦静山『甲子夜話』(正篇三十など)。
  14. ^ 桧垣山名誉碑文”. 2022年12月18日閲覧。
  15. ^ 『あきた』1970年6月1日号
  16. ^ 相馬大作 : 桧山実記”. 2022年12月18日閲覧。
  17. ^ a b 鷲谷豊『北羽歴研史論集 2』、相馬大作事件と矢立峠の誤伝、1995年
  18. ^ a b c 長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』昭和37年度後記、p.404-408(徳間文庫文庫版)

参考文献編集

  • 『北羽歴研史論集二』相馬大作事件と矢立峠の誤伝、1995年、鷲谷豊
  • 盛岡市『盛岡市史. 第2巻 (近世期 上・上2)』、トリョー・コム出版、1979年
  • 森嘉兵衛『岩手をつくる人々. 古代-近世篇 下巻』、法政大学出版局、1983年
  • 森嘉兵衛『岩手県の歴史』(県史シリーズ 3)、山川出版社 、1972年

関連項目編集